第1章 邂逅と背反は月への旅路で

 過去、勇敢な宇宙飛行士を乗せたアポロ宇宙船は地球より月まで約三日であった。地球上空三六十キロメートル、低衛星軌道に浮かんでいるボレアスから月までフォーマルハウトの巡航速度で約二日である。宇宙開発初期のような危険は既になく、月旅行も海外旅行と同じ感覚、とはいかずとも、決して一般市民に手の届かないものではなくなっていた。

 フォーマルハウトは、反乱軍に奪われたボレアスを脱出し、当初より処女航海と慣熟航行のために予定されていた目的地の月基地フォン・ブラウンへと舳先を向ける。戦闘行為はもとより想定されていなかったため、満載とは言えない武器弾薬の補給と増援の要請を兼ねることになった。

 初戦を終え、フォーマルハウトに帰還したベルンハルトは、マーリオン以外のドラグーン・パイロットたちと正式に顔合わせをすることになった。ドラグーンの慣熟訓練は何組かのグループに分けて別々の場所で実施され、時期も若干ずれていたため、一緒に訓練した何人かは知っているが、全員の顔と名前が一致しているわけではなかった。本来ならフォーマルハウトが出航する前に行われるはずだった中隊のミーティングをこれから行うと言うのだ。ベルンハルトをはじめとする中隊員は初めての出撃から帰投する際にマーリオンからこの話を聞かされていた。

 

 ベルンハルトは、ミーティングの前に、僅かばかりの私物を置きに自分の居室を探しに来ていた。事前に渡されていた資料でフォーマルハウト内部の構造をまったく知らないわけではなかったが、幾層にも重なる甲板の面積を合計すると小さな街が入ってしまうくらいの広大さを持つフォーマルハウトの中ではややもすると迷子になりそうになる。

 私物の品々は往還輸送機搭乗の数日前にボレアスに先に送ってあったものだ。質量測定と、違法薬物や軍事機密の漏洩に関する検閲を済ませて既にフォーマルハウトに搭載されている。宇宙空間では無重力だが、質量そのものがなくなるわけではない。巨大な宇宙艦艇が地球圏を飛び回る時代になっても宇宙船の質量の問題は重大である。作用反作用の物理法則に従い、同じ速度を出すにも質量が増せばその分多くの推進剤を必要とする。無重力かつ大気抵抗のない空間ではスラスターから推進剤を噴かすことでしか加速、減速、方向転換の手段がない。そのため、推進剤の枯渇は直ちに漂流を意味する。よって、推進剤の消費量の増大、すなわち質量の増大は宇宙艦艇にとって死活問題となる。

 乗組員一人にとっては軽い物であっても、その全員分となれば無視できないくらいの質量になる。大抵、軍が支給する小さな背嚢一個に入りきるくらいの量がせいぜいだ。家族の写真や、予備の眼鏡など生活上必須の物、信仰する宗教上必要な物、私用の携帯端末などが代表的なものだ。無論、あまりに重過ぎる物やまとまった数の物を持ち込むことはできない。

 フォーマルハウトの居住ブロックにある船室のドアの前に立つベルンハルト。

「多分、ここだな」

 自分の居室とはいえ名札が貼り出されているわけではないため、船室番号を頼りにドアの開放ボタンを押す。鍵はかかっていない。そもそも施錠できないようになっている。

 士官、それも航宙機パイロットであるベルンハルトには個室が与えられているが、軍艦の中では厳密な意味でのプライバシーはない。軍艦に乗っている限り現金は必要ないし、盗まれて困るような貴重品は肌身離さず持ち歩くか、持ち込まないのが常識である。特に、下士官兵の居室は軍の規律を乱していないかどうか、上官たる士官の抜き打ち検査を受けることがあるため、鍵どころかドアそのものがないことも珍しくない。ベルンハルトの部屋にはドアがあるだけまだましだった。その個室と呼ばれる部屋でさえ、本来は二段寝台になっているものの上段を畳み二人分の空間を一人で使っているに過ぎず、寝具でない空間も、仮にもうひとつ寝台を入れたとしたらそれだけで一杯になってしまうくらいの広さしかない。それでも、対面に備え付けられた三段寝台が当たり前で、横になる場所以外に自由に使える空間がまったくない下士官兵よりは破格の好待遇であることには違いないのだが。

 

 中には誰もいないはずだった。

 しかし、彼は後悔することになる。ドアを開ける前にノックをするべきだったと。

 何の躊躇もなく薄暗い部屋の中に入ると、

「だ、誰!?」

 と部屋の奥から声がした。

 暗闇に目が慣れてくると、確かにそこに人影があるのがわかる。声にも聞き覚えがあった。

「その声、ユーリイか? 悪い。部屋を間違えたか」

 ベルンハルトは目を細め、人影に目を凝らしてみる。

「なんだ、君か」

 着替えの最中なのか、そう答えるユーリイは軍服を着ていないようだった。耳に届いた声は確かにユーリイのものだと思ったのだが、目に見えるものに違和感を覚えた。透き通るように白い肌、身長に対してすらりと長い手足。最初にボレアスで会った時も色白で細身だと感じたからそれはいい。しかし、そこから上が問題だった。肌着こそ男物を着ているが、腰から背中にかけて緩やかにS字を描く流れるような体の線。そして、明らかにその者が何であるかを主張している胸の膨らみ。

 ベルンハルトがボレアスでユーリイを反乱軍の凶弾から救った時に感じた違和感の理由が今判った。

「お、お前、女……?」

 ユーリイは、部屋への闖入者がベルンハルトだと判ると、何事もなかったように着替えを続け、軍服の上着に袖を通した。

「いいや、僕は男だよ」

 人差し指を向けそうになるベルンハルトの動きを制するようにそう即答するユーリイ。彼――少なくとも本人はそう主張している――は、上着の前を留める前に軍服に巻き込まれていた長い髪を掻き揚げてその襟から抜き去る。美しい髪がその背中に流れ落ちる。

 ベルンハルトは混乱していた。男性だと思っていた人物が実は女性で、女性の姿をしているのに自分は男性だと主張する。

 ベルンハルトはどう対処してよいのかわからず、半ば反射的に回れ右して、

「お前、ちょっとは隠せよ!」

 と肩越しのユーリイに抗議する。本人の主張はどうであれ、見た目はまったく女性なのだから、相応の反応があるのが普通だと思っていた。自分の中で普通だと思うことが普通の通りではないことに対する抗議だったのだが、当の本人であるユーリイはその抗議に訝しげな顔をして首を傾げる。

「なんで? 男同士なんだし、何を気兼ねする必要があるの?」

「いや、お前はそう言うけどな、誰が見たって……」

 なおも抗議を続けようとするベルンハルトだったが、ユーリイの語気の荒い言葉に遮られた。

「しつこいな。誰が何と言おうと僕は男なの」

 まったく取り付く島のないユーリイの態度にベルンハルトは次の言葉を継ぐことができなかった。

 すっかり着替えを済ませてしまったユーリイは、そこに誰もいないかのようにベルンハルトの脇をすり抜けていく。そして、ドアの開放ボタンを押して通路に出ると通路の白い照明を背にし、まだ部屋の中にいるベルンハルトにこう言い残した。

「そんなことより、急がなくていいの? ミーティングに遅れるよ」

 ドア越しのユーリイの姿が見えなくなってしまってから数瞬の後、ドアが自動的に滑って閉じた。

 

 ベルンハルトは、ポケットの中から携帯端末を取り出し、再度自分の居室の場所を確認した。端末に表示されている番号は確かにこの部屋で間違いない。部屋を間違えたのは自分ではなく、ユーリイのほうだったと判った。しかし、軍艦で部屋の場所はさして重要なことではない。ひとまず、本来はユーリイの部屋である隣りの部屋を使うことにした。不都合があるようなら、後で事情を説明してユーリイに荷物を移動してもらえばいい。ベッド脇に置いてあった荷物を見る限りユーリイの私物も大した量ではなかった。

 今度は念のためノックしてから入室した。ベルンハルトは、部屋に誰もいないことを確認すると、私物の入った背嚢をベッドの上に放り投げ、ミーティングの場所となるブリーフィング・ルームに向かった。左腕の時計に一瞥を投げると、慌てるほどの時間ではない。

 長い通路を早足で進む間、ふと先ほどの戦闘で相見えた赤い機体からの低い声の通信を思い出していた。人の心があるならドラグーンを降りろ、とはどういう意味なのか。忘れかけていた疑問がベルンハルトの心の中に暗雲のようにたちこめる。兵器として生み出されたのは他の軍用航宙機も同様なのだから、ドラグーンだけ特別非人道的な兵器とも言えない。その兵器そのものに乗り、まさにドラグーンを撃墜しようとしていた低い声のあの男が、兵器と名の付くすべてを毛嫌いする平和主義者とは到底思えない。

 そんな考え事をしながら歩いていると、対向して歩いてくる、ある人物が目に入った。目鼻立ちの整った見目麗しい、長身の少女だった。通称〝グリーン・ジャケット〟と呼ばれる緑色の制服を着ていることから、遠目でも下士官兵であることはすぐにわかるが、軍人に似つかわしくないとも思える細身も手伝い、ユーリイよりも更に華奢に見えた。無表情な顔は物憂げで、どことなく儚げささえ感じる。手が届くほどの距離になるとこちらの視線に気付き、微笑んで軽く会釈をしてきた。ベルンハルトは無意識に少女の顔に注がれていた視線を咄嗟にそらしながらすれ違ったが、その後も彼女を視界の外に追いやるのはかなり難しかった。それほど印象的だったのだ。

 軍人同士の挨拶といえば敬礼が常識だが、敬礼をされなかったことも、ベルンハルト自身も敬礼をしなかったことにもかなり後になって気付いたほど上の空だった。もっとも、ただ美しいだけではそれほど見とれることはなかっただろう。その顔立ちが、あまりにも整いすぎていたのだ。まるで、最初からその場所にあるように意図されて配置されたかのように。映画俳優のような美女が備えていると相場が決まっている、癖のない長い金髪と透き通るような碧い瞳も、あえてそれらを『誰かが選んだ』かのようだった。

 軍服を着ている以上は彼女も軍人に違いないはずだが、もうひとつ、既に職業病になりつつある階級章の確認にも違和感はあった。どんな階級であろうと、本来は定数にも数えられない教育期間中の二等士候補士にでさえ、どこかに必ずあるはずの階級章がどこにもなかったのだ。襟にも、袖にも、肩にも。

 士官であるベルンハルトには彼女を呼び止めて所属部隊・階級と姓名を尋ねる権限が与えられてはいるが、職権濫用のようにも思えて躊躇われた。今回は任務上の必要に応じてはいないからだ。第二次世界大戦以降、軍人が男性だけの職業ではなくなってから、隊内における階級の絶対的上下関係が悪用された不祥事には枚挙にいとまがないことは候補生時代の遵法教育でも散々叩き込まれてきたことだ。

 その僅か数秒の出来事は、ベルンハルトに多くの疑問を残した。

 既に遠ざかりつつある少女の背中を見送りつつ、ベルンハルトの歩みは徐々に遅くなり、やがて完全に止まってしまっていた。

 ふと我に返り、再び左腕の時計を見ると、ミーティング開始時刻までにはもう間もないことがわかった。時間に遅れまいと時計を気にしつつ勢い駆け足になってしまう。通路が交差する曲がり角をちょうど通過しようとしたところで、角から出てきた誰かと正面から衝突してしまった。

「きゃぁっ!」

 悲鳴が上がった。体格のいいベルンハルトは、衝突した相手を突き飛ばしてしまった。

「すっ、すいません!」

 注意散漫で通路を走っていたのは自分のほうだったのは明らかだったため、ベルンハルトはすぐにその誰かに謝罪する。彼に衝突した人物は、尻餅をつき、ぶつかった右肩を左手で押さえ、あからさまに不満を主張していた。上目遣いの視線は、ふくれた顔に輪をかけてその不満を強調していた。

「痛ったぁ~。どこ見てんのよぉ」

 女性だった。ベルンハルトからしてみれば頭ひとつほども背の低い小柄な。小さな顔に癖のない長い、豊かな金髪。その髪の一部は胸の高さで桜桃を思わせるふたつの赤い球飾りのついたゴムの髪留めで左右にひと房ずつまとめられている。年齢は二十歳前後のように見えた。軍服、しかもホワイト・ジャケットに身を包み、フォーマルハウトに乗艦しているのだから、当然軍人であり士官なのだが、学生でも十分通用する。十代の学生が好みそうな丈の短いフレア・スカートもそれに輪をかけていた。

「今ちょっと……」

 考え事しながら走ってまして、と咄嗟に言いかけたベルンハルトは相手の顔を見るなり、

「お前は! ……ミュリィ!」

 と大声をあげて人差し指を彼女に向けかける。

「ヴェルナー!? あなたなの!?」

 彼女もまたベルンハルトとまったく同じ反応をする。ぶつかった女性は、ベルンハルトと同じく、新人パイロットにしてドラグーン専任パイロットに選ばれ、共に慣熟訓練を積んできたミュリエル・プリシラ・アンダーソン少尉だった。彼女はベルンハルトより五つも年下だったが、年上として扱われた記憶などついぞない。養成課程での成績は、身長が低いことと女性であるが故に基礎体力に劣ることを勘案してもベルンハルトといい勝負で、ベルンハルトにとって最も身近な友人の一人だった。

 ヴェルナーとは、ベルンハルトのミドルネームである、元々はドイツ名のヴェルンヘアを英語読みに近くした彼の愛称だ。世界がひとつに統合された現在では実質的な世界共通語は英語になっており、英語では同じ名前をウェルナーと読むため、どうしても英語読みに引きずられる。彼は家族や親しい者にだけミドルネームで呼ぶことを許していたし、彼を正しくない発音でヴェルナーと呼べるのは更にごく一部の者だけだ。

「今までどこいってたんだ!? 俺より先発のシャトルだっただろ?」

 ベルンハルトの問い掛けに、ミュリエルは、突いていた手で床を押してその勢いを利用して立ち上がると、

「それはこっちの台詞よ。ヴェルナーの乗ったシャトルが攻撃を受けたって聞いて、心配したんだからね!」

 とベルンハルトの言葉に抗議する。彼は、両腕を広げ、

「このとおりピンピンしてる」

 とどこも怪我などしていないと表現する。

「そっちこそ、ちゃんとフォーマルハウトに乗れてたか気にはなってたんだぞ?」

 しかし、ミュリエルは、その言葉に不満げな表情を少しも緩めず、彼の目の前に歩み寄り、

「へぇ、本当に。でも、気にはなってた、程度なんだ」

 と彼の顔を見上げながら詰め寄る。可愛らしい顔の割には妙に迫力のあるミュリエルの顔がベルンハルトの目前に迫る。

「厳しーぃ、訓練を共にした仲間に向かってその言い草はちょっと酷いんじゃない?」

「待て。もちろん忘れてたわけじゃない。それに、そんなに酷いことも言ってないぞ!?」

 目前に迫ったミュリエルの顔から離れるように胸を反らして応えるベルンハルト。

「ふーん。私を力一杯突き飛ばしておいて、そのうえそんな言い訳までしちゃうんだ」

 こうなってしまったミュリエルは簡単には止められない。自分のペースに強引に引き込むこのような口調は彼女の常套手段なのだ。ベルンハルトは戦闘航宙機操縦士養成課程の三年間とドラグーン慣熟訓練で共に生活した三ヶ月間でこのことを嫌というほど思い知らされていた。彼は、どうやってこの場を切り抜けるか必死に考えを巡らせていた。ここで弱気になって自分に非があることを認めようものなら、ミュリエルは様々な要求を突きつけてくるのは経験上わかりきっていたことだったからだ。

 ミュリエルは、視線をそらして引きつった顔で必死に考えているベルンハルトの様子に不満そうに眉をひそめる。ベルンハルトはその様子にすぐに気が付き、次の攻撃が来る前に慌てて話題をそらす。

「そ、それよりも、早くブリーフィング・ルームに行かないと!」

 ミュリエルは、はっとして口を手で覆いかける。どうやら当面の危機は脱したようだ。

「そうよ! 早くしないと! 遅れたらあんたのせいだからね!」

 ベルンハルトとミュリエルは、再びブリーフィング・ルームに小走りで向かっていった。

 

 ベルンハルトとミュリエルがブリーフィング・ルームに着いた時には、集合時間を少し過ぎていた。

「遅れて申し訳ありません! ベルンハルト・ヴァイス少尉、ミュリエル・アンダーソン少尉の両名ただいま到着しました!」

 ベルンハルトは扉を入ったところで弾んだ息を整えるのもそこそこに室内に向かってそう告げ、敬礼する。ミュリエルもそれに従う。

 ブリーフィング・ルームの中には、折りたたみ式の椅子がついた、やや傾斜のついた天板の長机が左右に五列ずつ備え付けられていた。それぞれの机の前に四人ほど座れるから、全部で四十名ほど着席できる。部屋の後方入口のベルンハルトらから見て奥にはマーリオンが立っている演壇と説明者用の小さな机があり、作戦説明用の大型プロジェクタが一基設置されている。他には座席が足らなかった時のための折り畳み椅子が十脚ほど壁に立てかけられているくらいだ。窓もなく、いたって簡素な造りである。

 当然のように他のパイロットは全員集合しており、二人を振り返ってまじまじと見つめている。隊員達は、それぞれの机に一人分の間を空けて二人ずつ着席しており、前から二列と半分が埋まっていた。ベルンハルトは、その横顔の中に呆れ顔のユーリイもいることを確認した。彼は時間に間に合ったようだ。ベルンハルトと横目に視線が合うと、とばっちりを避けるかのようにすぐに前を向いてしまった。「だから言ったのに」とでも言いたげだ。

(助け船を出してくれ、と言えるほどの仲でもないか……)

 気まずい視線を感じて堅くなる二人。しかし、特に非難の声が上がったわけでもなく、隊長であるマーリオンからの叱責が飛んでくるわけでもなかった。

「揃ったようですね。それでは、始めましょうか」

 マーリオンは叱責どころか、そうにこやかに言うと、演壇の上に置いたタブレット型携帯端末に指を滑らせ、表示されている資料のファイルを開いた。しかし、それを遮る声が上がった。

「少佐、ミーティングが十分も遅れた原因になったヴァイス少尉らには何らかの処罰はないのですか? これが実戦なら、フォーマルハウトは既に危機的な状況に陥っています」

「えーと、あなたは……」

 マーリオンは抗議の声を上げた人物の資料を探してファイルをめくる。

「ルドミラ・アーヴェン中尉です」

 マーリオンはファイルをめくっていた手を止め、抗議のために立ち上がった人物、ルドミラ・パヴロヴナ・アーヴェン中尉に向き直った。そして、人差し指を顎に当て、思案するように視線を泳がせる。

 ルドミラはベルンハルトとあまり変わらないくらいの長身で、赤毛の頭髪から放たれるその威容は他者を圧倒するには十分過ぎる迫力があった。その赤毛が怒りに燃えているようにさえ見える。しかし、マーリオンは特に臆した様子も、戸惑った様子もなく、落ち着いた口調でルドミラに語りかけた。

「……そうですねぇ。みんなまだこの艦に慣れてないでしょうから、今回だけは特別に待ったんですが、次からは待たないってことで許してもらえませんか? アーヴェン中尉」

 しかし、マーリオンからの提案にも、ルドミラは眉ひとつ動かさず、髪の毛と同じように真っ赤な瞳でマーリオンの瞳を真正面から捉えたまま無表情でそのまま直立不動の姿勢を崩さない。誰の目に見てもマーリオンの処置に納得していないのは明らかだ。

 ブリーフィング・ルームに沈黙が流れる。

「わかりました! 俺が罰を受ければいいんですね? アンダーソン少尉が遅れたのも自分が原因です」

 その様子を見かねてベルンハルトが口を挟む。

「ちょっ、ちょっと!」

 ミュリエルはその言葉に驚いてベルンハルトの顔を見上げる。彼女はすぐにマーリオンのほうを見ると、胸に手を当ててベルンハルトを弁護する。

「い、いえ少佐! 私が遅れたのは私自身の責任です」

「やめなさい、二人とも。アーヴェン中尉も今すぐ座りなさい」

 ミュリエルの言葉を遮るように発されたマーリオンの言葉は決して大声ではない。しかし、部屋全体の空気を一気に緊張させるに十分な力を持っていた。

「次からは待たないというのは、決して甘やかしているのではありません。誰でも初めてのことにはミスが付き物です。誰にでもミスはあるのです。今は確かに非常時ですが、初犯は許す、と隊長の私が言っているのです。素直に従いなさい。これは命令です」

 ルドミラも命令とはっきり言われてしまうと、さすがに言い返しようがなくなったようだった。彼女は、ベルンハルトを一瞥すると、いかにも不服そうな顔をしながらも腰を下ろす。

 ベルンハルトは、ルドミラの視線に気付き、同じように一瞥するが、あとは今までの遣り取りをすべて忘れ去ってしまったかのような顔で、空いている席にミュリエルと並んで座った。それを目で追う隊員達。

「それでは、始めますよ」

 二人が席についたのを確認すると、にこやかな笑顔を取り戻してミーティングの開始を宣言するマーリオン。ベルンハルトとミュリエルを振り返って見ていた中隊員はその声に一斉に前を向く。先ほどの静かな迫力を持った言葉はもうそこにはない。いつもの柔らかなマーリオンの声に、部屋に張り詰めていた雰囲気は幾分かは和み、当事者以外の隊員達は救われた。

「私は第三三戦闘攻撃航宙部隊長のマーリオン・ボルン少佐です。第一小隊長を兼任します。突然の非常事態で、順番が反対になってしまいましたが、ここでみなさんの乗機と所属を正式に発表します。機体は先ほどと同じように格納庫にありますので、後でゆっくり対面してきてください」

 部屋の中に小さな歓声が上がる。マーリオンはその反応に、にっこり頷くと、ファイルの資料を読み上げた。

「それでは、順に発表します。クラリッサ・マクレイン中尉。第三三戦闘攻撃航宙部隊第一小隊二番機、ドラグーン二号機」

「はい!」

 クラリッサ・マクレインと呼ばれた人物は、名前を呼ばれると、返事をして立ち上がる。ベルンハルトからでは後姿しか見えず、顔はわからないが、マーリオンより少し低いくらいの身長で、たおやかな体の線に長く豊かな髪を三つ編みにした一本お下げが特徴的な背中だ。

「リリア・アイスナー少尉。第一小隊三番機、ドラグーン三号機」

「……はい」

 今度はミュリエルよりも背の低い小柄な女性が立ち上がった。ベルンハルトはその背中に見覚えがあった。直接話をしたことはなかったかったため、名前と顔と声の一致には自信が持てなかったが、確実にどこかで見た記憶はあった。

 ベルンハルトの順番は思いの他早くやってきた。

「ベルンハルト・ヴァイス少尉。第一小隊四番機、ドラグーン十三号機」

「は、はい!」

 何故だか当事者感がなく、他人事のように他のパイロットの背中を見つめてぼんやりしていたベルンハルトは、反射的に弾かれたように立ち上がる。もう既に一回乗っている機体だったが、今こうして言い渡されると、急に実感が湧いてくる。

 ベルンハルトは、他のパイロットには判らないように、右隣りのミュリエルに対して右手の親指を立てて小さくガッツポーズをした。ミュリエルは、それに気が付いてベルンハルトの顔を見上げたが、私だって自分の機体を貰うのよ、と言わんばかりに呆れたような顔をして見せた。

 その間もマーリオンの読み上げは続く。ベルンハルトにとって数少ない顔見知りであるユーリイは第二小隊の三番機だった。それに続く第三小隊の隊員に差し掛かり、その二人目にベルンハルトの意識に引っ掛かる者がいた。

「ルフィ。第三小隊二番機、ドラグーン八号機」

「はい」

 返事の声に従って無意識に送った視線から飛び込んできた、確かに見覚えのある横顔にベルンハルトは息を呑んだ。

(さっき、通路ですれ違った……!)

 咄嗟に出かかった驚きの声をすんでのところで堪えたが、再びベルンハルトの視線は彼女に釘付けになった。名前を呼ばれて立ち上がった女性はベルンハルトから見てちょうど左方にいた。改めてみるとミュリエルよりも年下に見える。

(ますます訳がわからない……! グリーン・ジャケットなのにパイロット!?)

 航宙機のパイロットは必ず少尉以上の士官でなければならない、と軍の規定により定められているから、緑色の制服を着ていた彼女が自分と同じ隊の最も身近な同僚になるなどと思い至らないのも無理はない。士官ならばマーリオン等と同じように、通称ホワイト・ジャケットと呼ばれる純白の制服を着ているはずである。

 先ほどの多くの疑問のうち、彼女の呼び名はルフィだと判明し、ひとつ解消したが、再び増えた。マーリオンが読み上げた彼女の名前には、あって然るべき名字やファミリーネームと呼べるものがなかったからだ。ルフィが本名なのか、愛称なのかもわからない。そして、その名前の前後には、その飾り気のない上着が物語るとおり、軍人なら当然持っているはずの階級がやはりなかった。

 部屋の空気が一変し、全員の視線が一点に集中しているのを見て、マーリオンは隊員名簿の読み上げを一時中断した。

「……やはり、ホワイトに混じってグリーンがいるのは不思議ですか?」

 マーリオンのその言葉に威圧的な圧力はなかったが、その顔からは笑みが消えている。先ほどの遅刻に関する問答よりも遙かに厳格な響きを伴っていることは明白だ。隊員達は図星を突かれたことを肯定するかのように正面を向き、姿勢を正す。次から次へと変わる部屋の空気に対処し切ることもまた、士官としてキャリアを積むために求められる技能のひとつでもある。

 もちろん、指名されない限りは「はい、不思議です」と答える者はいない。それに、ここでそのように答えることが適切かどうかは別問題だ。

 ここが忠実な兵士を鍛え上げる各種学校であれば、鬼の練兵教官が、ただでさえ大きな声を更に張り上げて学生の耳の傍で質問を繰り返す場面だ。そういった時は、教官が期待している答えは決まってひとつしかない。どんなに理不尽なものであっても、上官からの命令には逆らわず、絶対服従であることを確約する返事だけだ。どういった過程でドラグーンのパイロットに選抜されたかに依らず、全員多かれ少なかれ同様の経験をしてきている。指名もされていないのに勝手に不規則発言をしようものなら、上官の心証は悪くなりこそすれ良くなることなどない。ドラグーンから降ろされたくなければ、なおさらである。

 つまり、今の状況に疑問を持ってはならないのだ。持ったとしても口にしてはならない。疑問の原因そのものが、隊長であり、より上級の士官たる佐官でもあるマーリオンの意向であれば、同じくホワイト・ジャケットに袖を通すことを許された尉官であっても反対する権利など最初からない。

 沈黙が部屋を支配する。

 ただでさえ重い空気が凍り付いていくような独特の居心地の悪さを背筋に感じながらも、ベルンハルトならずとも抱いた疑問についてはいずれわかる時が来るかもしれない、と諦めるより他にないかと思われた。

 誰もが『イエス、サー!』以外の返事を許されなかった候補生時代を思い出させるこの時間をやり過ごそうとして沈黙を守っていた。

 しかし、その静寂は突然破られた。

「はぁ~い。不思議で~すぅ」

(バ、バカ野郎……!! 今になって口を開くなんて……! 空気読めてないなんてレベルじゃないぞ……!)

 突如挙がった手と、脳天気な声に、ベルンハルトには凍り付いた空気が粉々に砕け散る音が聞こえたような気がした。

「あの子……! パイロット養成課程で成績最下位だったアホの子じゃない……。修了できただけでも奇跡なのに、こんな基本的なこともいまだにわかってないなんて……!」

 ミュリエルは同期の失態に目を覆い、悪態をつく。

 実際には、難関である戦闘航宙機操縦士養成課程に進めたというだけでも馬鹿であるはずはないのだが、その中でも最下位を最後まで脱出できなかったとなればやはり経歴上の汚点として残る。むしろ、ミュリエルとしては頭の良し悪しという問題よりも、要領が悪く、何回指摘されても軍隊式のやり方に馴染まず、いつになっても一向に軍人らしくなっていないことを指して「アホの子」と言っていることはベルンハルトにも理解できた。

 軍隊で中途半端な反骨精神を持つのは、かえって面倒が増えるだけだということを頭だけではなく体に染み着くまで繰り返すのが訓練というものの側面のひとつでもある。下手をすれば同期全員に飛び火をしかねない。「今年の戦闘航宙機操縦士養成課程修了者はどうなっているのか」と。

「発言する時は名前を名乗ってからにしなさい。少尉」

「了解でぇ~す。私はぁ、ルイーゼ・フライスラー少尉でありまぁ~すぅ。あ、少尉になりましたぁ」

 悪びれもせず、相変わらず緊張感の欠片もない声でそう名乗る若い少尉は、ミュリエルと同じくらいの身長だがかなり童顔でもあり、見た目は年下のように見えた。ただの癖毛とは思えない、ウェーブというレベルを超えて毛先が内側にくるりと一周以上した、ふわりとした髪型も彼女の『軍人らしくなさ』に輪をかけていた。

 マーリオンは、肩を落としてひとつ大きく溜息をつくと、

「全員、ひとまず着席してください。フライスラー少尉の勇気に感謝するように」

 と一時着席を命じた。

 マーリオンは、そもそも規格外の機体のパイロットに選ばれた者が集まった部隊なのだから、その内面もまた規格外なのかもしれない、と落胆半分、諦念半分の様子だった。

「時機を見計らって説明しようと思っていたのですが、彼女はドラグーンの正式なパイロットです。グリーン・ジャケットを着ているのも間違いではありません」

 まったく説明になっていない。ベルンハルトは率直にそう感じた。この部屋にいる以上、ドラグーンのパイロットだと言われるのは承服できる。制服が緑色なのも、特例中の更に例外なのだ、と言われれば強引にでも自分を納得させられる。しかし、名前がないことは普通ではない。階級がないということは軍人ではないことを意味する。一般に、『制服組』と言えば職業軍人を指すのに対し、軍に所属してはいても軍人ではない文官や技官といった『背広組』と呼ばれる軍属であれば、色の問題以前にそもそも軍服を着ない。

 つまり、達するべき結論はひとつしかない。彼女は生物学上の種としての『ヒト』ではないということだ。

「察しの良い人は気付いたかもしれませんね。彼女は『OMD』です」

 この一言で、ベルンハルトの疑問は浜辺の砂山が波に溶けるようにすべて解決した。その者がOMDであるならば、名がなくても当たり前のことだ。短い愛称のような名は、型式番号や製造番号の代わりに個体の識別のために与えられた記号に過ぎない。もともと人間ではないのだから『軍人』になることもできない。大半の人間が美しいと認知する黄金比とも呼べる長さや間隔の比率を割り出し、人類が意図して目鼻立ちをはじめとする身体的外観を周到に設計した物なのだから常人離れした美貌も不思議なことではない。

「様々な実証実験のため、ドラグーンのパイロットとして試験的に乗艦しています。階級こそありませんが、みなさんと立場は同じです。仲良くしてあげてください」

 仲良く、という言葉にやや失笑交じりの小さな笑い声が聞こえた。マーリオン自身がたった今体現したように厳格な縦社会である軍隊では不似合いな言葉であることに対してなのか、OMDを人間と対等に見ることなどできないという拒否反応なのかはベルンハルトには量りかねたが、笑いたくなる心情もまた理解しがたかった。

「『OMD人権保護裁判』のことは入隊以前の初等学校で全員習いましたね? 理由はどうあれ、今、笑った人の顔は覚えましたよ」

 目を伏せているようでいながら、誰に視線を注ぐことなく、誰を指し示すこともなく、さらりと言い伏せるマーリオン。見えていないようでも、壇上からではよく見えるものだ。

 部屋に再び緊張感が訪れ、二度と笑う者はいなかった。

 

 OMDとは、オーガニック・メタル・ドールの略称であり、人類の生物工学と人工頭脳学の粋を結集して生み出された人造人間である。日本語では有機機械人間などと訳される。製造された時から十代ないしは二十代の女性の姿をしており、成長もしないが、老化もない。体組織のほとんどが有機物で構成されているため、ロボットやサイボーグなどとは明確に区別される。

 OMDの骨格にはチタン合金を軸とする高強度・高耐食性の非晶質金属、炭素繊維、タングステンなどで編まれた人工繊維の人工骨が使用されている。その強度は、応力のかけ方にもよるが、概ね人間の骨格の五倍から十倍程度とされる。また、電気信号に応じて伸縮する新型ゲル状有機素材により筋肉が構成されている。躯体は文字通り人工的に製造可能であるため、機能しなくなった箇所は交換できるとされている。

 頭脳は人間の大脳皮質とほぼ同じ組成を持つ有機頭脳部と最新型の電子計算機級の処理能力を持つ電子頭脳部により構成されている。これにより、人間のような柔軟な思考に加え、正確かつ高速な演算、処理を行うことができ、理論的には無限の記憶容量を持つとされる。躯体とは異なり、頭脳だけは再生がきかないが、翻って言えば、頭脳が破壊されない限り死亡することがないということでもある。

 体内温度の調整と酸素・活動エネルギー・老廃物の運搬のため、人工血液を循環する血管が体中に張り巡らされている。生物工学研究の究極の成果たる幾多の酵素的化学反応を応用しているため、人間と同じく体温には恒温性がある。人工血液の色は本来、無色透明だが、周囲の人間の心理的影響を考慮し、肌の色を人間に近くするために赤色に着色されている。着色による人工血液そのものの機能の低減はほとんどないとされている。人工血液そのものの膨張があるため、宇宙空間での活動を行うためには宇宙服を着用する必要があるが、周囲の圧力さえ一気圧に近ければ、人工血液の酸素運搬効率が極めて高いことから酸素が希薄な空間でも人間より長く生存することができる。

 活動に必要とするエネルギーは人間と同様に経口で摂取し、人間の消化器官と同様の機能を持った器官でエネルギーに変換・蓄積されるが、その変換方法は酵素的反応を応用している以上の詳細は機密となっている。口に入りさえすれば大抵の有機物をエネルギーに変換できるため、非加熱の雑草、昆虫や樹皮などおよそ食料にならないものでも食べられるとされている。

 基本的に人間の使う道具やマン・マシン・インターフェースを用いて作業することを前提としたために視覚、聴覚及び触覚は必須とされ、対人コミュニケーションのための言語能力も最初期から備えられていた。しかし、つい最近まで味覚と嗅覚がなく、味や匂いがわからなかったため、どうしても行動が人間離れしやすかった。近年、OMDに味覚と嗅覚を与える研究が成功を修め、より人間に近いOMDを造ろうとする科学者達によって研究が続けられている。

 この程度の情報は公開されていながら、唯一無二の製造企業であるキュヴィエ・バイオケミカル社の企業秘密により正確な生産数や具体的な製造工程、原材料に関してはまったく明かされておらず、同社の完全な独占市場である。

 リバース・エンジニアリングによる複製を目的として入手したOMDの解体を試みた例もないではないが、ことごとく失敗に終わっている。もっとも、失敗した試みを誇らしげに発表する研究者はいないため、その構造の解明が一向に進まないことを以て失敗が重ねられていると捉えられている。ただ、どのような方法を用い、どのような経過をたどり、どのような結果になったのかという具体的な発表がないため失敗の理由には推測も多く、諸説あるが、OMDの頭脳には何重にも防壁が設けられており、強制的に分解しようとすると秘密を守るために自己防衛機能が作動するという説がもっともらしく語られている。

 それらの説の中には、頭脳への侵入者を道連れにして自滅する、といった事実なのか他愛のない噂なのか判然としない、ある種の都市伝説としか思えないような話まであった。人間より遙かに強靱な骨格と筋肉を有するため、自身の躯体が損傷することを厭わなければ素手で人間を殺すくらいは造作もないことは想像に難くない。実際、OMDの構造を調べようとしていた研究者のうち何名かが何の痕跡も残さずに失踪しているという事実が好奇に満ちた報道によって公となってからは、それも都市伝説の流布に拍車をかけていた。

 また一方では、失踪事件そのものが虚偽であり、部外者によるOMDの研究を妨害するためにキュヴィエ・バイオケミカル社が故意に流布した風説だとする陰謀論まであった。

 

 OMDは見た目こそ人間とほぼ同じであるが、頭脳が破壊されない限り死亡することがないため、基本的に数は増える一方である。人間よりも宇宙空間での順応性が高く、耐久性も高いため、人間では扱いきれない強力な強化外骨格を装備することができるなど多くの利点を持っているが、素体そのものが極めて高価であり、量産性の低いものである。そのため、数が揃わないと使いものにならない用途には向かない。頭脳さえ無事ならば体は再生がきくのも利点のひとつであるが、価格面の問題はいかんともしがたく、今のところはこれといって決まった主用途がないのも事実である。

 どんなに姿形が似ていても正確には人間でないため、初期には感情・情操プログラムが未熟で発展途上だったこともあり、その名のとおり自律的に動く『人形』の一種と捉えられて人権もなかった。それを逆手に取った一部の富豪に隷従させられ虐待を受けるという事例も公然の秘密であった。しかし、とある裁判でOMDに対する虐待からの保護を合憲とする画期的な司法判断がなされ、当時の法制下でできうる限り厳重な処分が被告に下されたことで大いに報道を賑わせた。その判決は、後に「有機人造生命体において地球統合憲章に定める人権の保護が及びうる範囲に関する裁定」、一般的には略して「OMD人権保護裁判」と呼ばれ、司法史に名を残す有名な判例となった。

 感情・情操プログラムの性能が向上するにつれてますます人間との境目が曖昧になり、近年OMDも一個の人格を持つものとして認識されるようになっている。

 地球圏の住民の大半はOMDの存在を擁護派ほど積極的ではないながらも消極的に容認しており、「人間の姿をして感情を持っているのだから人間として認めるべきだ」とする機運の高まりにつれて人権擁護の観点からの待遇改善がなされた。とりわけ、憲法にあたる地球統合憲章が拡大解釈され、OMDが他者の手によって殺されない権利、つまり狭義における生存権が認められるようになるとOMDの解体も殺人と見なされるようになった。OMDに関するほぼすべての技術をキュヴィエ・バイオケミカル社に独占されていることを快く思わない企業や科学者にとっては皮肉にも、これがOMDの根本的な構造解明が一向に進まない要因のひとつにもなっていた。

 無論、放射線や核磁気共鳴を応用した断層撮影による非破壊検査も試みられはしたが、やはりOMDの頭脳に備えられた防壁が無意識下で作動し、して循環器系を除く全機能を停止、つまり仮死状態になってしまうことが判明した。検査を強行すると、最悪の場合死亡してしまう可能性があったため結局断念された。検査断念の背景には有名になりすぎた件の都市伝説も手伝っていた。

 なお、地球統合政府の刑法に定められる殺人罪には時効がなく、死ぬまで続く投獄の危険を冒してまで、ただでさえ高額なOMDの構造を調べようとする酔狂な者は今ではほとんど現れなくなっている。

 それまでに僅かな情報を元にOMDの骨格筋の構造研究が最も進んでいたため、劣化複製品に留まるもののかろうじて人造筋肉の開発に成功し、ロボット工学や医療などの分野に応用されている。

 義肢や人工臓器はもとより、胎児期にしか形成されない人体の組織が欠損した場合にその機能を回復させる再生医療にも応用できるのではないかと考える者は後を絶たず、人道的な理由からキュヴィエ・バイオケミカル社に技術の開示を求めたり、純粋に商業的な理由から技術提携を持ちかけたりした企業や団体も数え切れないほどあった。しかし、いずれも門前払いに等しく、合意に至った例はいまだにひとつもない。決裂した交渉相手から端を発する、徹底した秘密主義に対する批判も日増しに強まっていることも事実である。

 それでも、OMDが金銭で取り引きされる慣例もまた、今も変わらず事実である。人間として最低限の待遇を認められていながら、政府、法人、個人を問わず購入者が所有する資産でもあり、その役目や任務といった用途も所有者が実質上の決定権を持っているため職業選択の自由がないというOMD発明直後からある実態も変わっていない。

 宗教上の理由から、いたずらに擬似生命を生み出す行為を神への冒涜として嫌悪する感情や、内部を調べられない以上、人間にしか見えないものが最終的には金銭で取り引きされるという倫理上の問題からOMDの存在そのものを否定する宗派や人権団体は少なからずあり、対立する擁護派との論争が今も絶えない。『「太古の奴隷制度の再来』や『不気味の谷を超越しても不気味』といった」揶揄も、もはや今更指摘しても特別大きな賛同も得られない、OMDの原罪に近い批判として定着してしまった。

 「不気味の谷」とは、二十世紀後期に日本のロボット工学者が提唱した心理的現象である。ロボットが人間の姿に近くなればなるほど人間はそのロボットに親近感を覚えなくなるが、ある境界線を越えて人間と同等になれば感情的反応が急速にV字回復するというものである。このV字の部分を谷と呼んだ。同現象が発表された当時は人間と同等の姿や動作をするロボットはまだ開発されていなかったため、谷の向こう側では親近感が増すという理論、あるいは主張はあくまでも仮説であり、科学的根拠のない予想に過ぎないとする批判もあった。

 あらかじめ被験体がOMDだと知らされていないという条件下の実験であれば、ほぼすべての被験者で同現象を観測できた。しかしながら、実験後に実は被験体は人間ではなかったと明かされるとその感情的反応は大きく変動した。奇しくも、OMDの登場によって「ヒトの姿をしたヒトでない物に対する感情は、その人間の生い立ちやその過程で獲得しえた価値観やイデオロギーといった後天的な要素によって大きく異なる」との結論が導かれたことで、どんな場合でも実験は反復性や再現性を持たなければならないという原則において同現象は非科学的とされ、必ずしも正しくはなかったと証明された。

 今では常識となった実験結果に対しても「不気味の谷」現象を支持する論者からの異論はある。被験体がOMDだと見る前から判明している状況など通常の社会生活では考えにくく、被験者の第一印象だけで判断すべきだというものである。被験者の感情が政治的、社会的、宗教的背景から来る観念形態に影響を受けるのは当然であって、そういった要素は事前に取り除いておかないと心理学的アプローチにおける実験にはならないという根拠に立脚する。ところが実際には、一般市民がOMDを目にする機会はOMD単独で自由に行動している場合よりも、所有者に随行しているのを見る場合が圧倒的に多く、比較的容易にOMDを特定できてしまうため、学者ではない市民層にはこの論理はなかなか馴染まず、常識と言えるほどの大きな支持までは得られていない。極端なものでは、そもそも感情を検証すべき実験対象とすることこそに無理があり、誤りだとする根本論まであるが、同現象は感情的反応についてのものであるため本末転倒であり議論が成立しない。そんな思考停止としか思えないような極論が出てしまうほど、人類がOMDをどう扱っていいのか決めあぐねているとも言えた。

 また、工場のような施設の生産ラインで画一的に製造され、電源を主な動力とする古典的な意味でのロボットと、外見や性格にも個性があり、分解はおろか非破壊検査もできないため製造方法も動力源も一切不明なOMDとを同列に扱って比較するのは適切ではないとする見方もある。しかし、OMDに比肩するアンドロイドのような古典的人型ロボットはいまだ発明されるに至っていないため、OMDが登場しなければ別の結果になっていたかもしれないという見解もまた、仮説の域を出ない。

 様々なアプローチが試みられているものの、不明だらけでは学術的な定義も決めようがなく、統合政府から指針が示されているわけでもないため、ともかく現実問題として日常の中にOMDが住まうことになった一般市民はどのようにそれらと接するのか各々で決めなければならない。各自の判断に任されるということは、政治家や学者がわざわざ決めずとも人間とOMDとの間にはどこかに越えられない境界があるということを如実に示しており、OMDが人間と対等の立場に立つ日は限りなく遠いか、あるいは永久に訪れないとさえ言われている。

 

 これが学生時代に近代史の授業で習った、ベルンハルトの知りうる限りのOMDに関する基礎的な知識のすべてだった。倫理の講義で『保護されるべき基本的人権とは何か?』という議題のディスカッションでOMDが引き合いに出される光景も珍しくはない。OMDにさえ認められていない権利は果たして基本的な人権と呼べるのか、という切り口の議論は紛糾することもしばしばである。

 彼はOMDに対しては特別な感情を持っていなかった。彼が育ってきた環境の身近にOMDがいなかったせいもあるが、いたとしても別段区別をする必要もないと思っていた。むしろ、どう区別すればいいのかわからなかった。実際、こうして実物のOMDを目の前にしても何の感想もないし、解けてしまった疑問以上の好奇心も刺激されない。同僚のパイロットの中にOMDがいる、という事実だけしか頭の中に入ってこなかった。

 何の感想もなかったのだが、いつの間にかルフィの横顔を再び注視していたようだった。彼女は、ベルンハルトの視線に気付くと、顔を少しそちらへ向け、微笑んだ。視線がかち合った時、人間じゃないなんてとても思えない、とベルンハルトは直感的に思った、あるいは感じ取った。それほどまでに自然かつ柔和な笑顔だった。最初にすれ違った時でさえ、彼女が人間でない可能性など微塵も考えもしなかった。

「……っと。ちょっと、ヴェルナー。どうしたのよ、ぼんやりして」

 ルフィの微笑を見たのとほぼ同じくして、ベルンハルトは隣りのミュリエルからの囁きで我に返った。彼から見て右下に視線を流すと、視線が合うのとほぼ同時に訝しげに小首を傾げるミュリエル。

「……ミュリエル・アンダーソン少尉。第四小隊二番機、ドラグーン十一号機」

「え……? は、はいっ」

 ベルンハルトに気をとられてていたため、マーリオンの言葉を聞き逃しそうになり、慌てて立ち上がるミュリエル。それを見て悪いと思いながらも反射的に吹き出してしまうベルンハルト。

「あんたのせいでしょ!」

 ミュリエルは頬を紅潮させてベルンハルトを肘で小突いた。

 なお、先ほど容姿に似合わない蛮勇を見せたフライスラー少尉は最後に名前を呼ばれ、十二号機搭乗、第四小隊三番機だった。

 

 マーリオンは、各員の機体と所属の発表を終えると、全員に着席を命じた。

 全員の名前を呼び終わったところで、ベルンハルトはあることに気が付いた。

(おい……。ちょ、ちょっと待て……。これで全員か……?)

 中隊員は自分を除き、全員女性なのである。本人の主張はともかく、ユーリイも女性に数えていた。

(男は、俺だけ……?)

 慣熟訓練の際も自分一人だけ男だったのが気にはなっていたが、他に男性が一人もいないなどという状況は夢にも思っていなかった。航宙機のパイロットにはマーリオンをはじめとする女性パイロットも少なからずいたが、戦闘航宙機操縦士養成課程の候補生時代でも女性は全体に対してごく少数だったため、彼の思い込みも無理もないことである。軍隊に限らずどんな職場でも、同性の同僚というのは良き相談相手であり、良き遊び友達にもなるものであるが、少なくとも、中隊内では彼にはそういった同僚が一人も用意されていなかったのだ。

 ベルンハルトは、ここで初めてアロイスのボレアスでの言葉の意味を理解した。アロイスと彼の上官であるマクシミリアン・マクスウェル大尉はドラグーン中隊に男性が一人ないしは二人しかいないことを知っていたのだ。「ないしは二人」という推定は、自称男性のユーリイのことを男性のうちに数えていたかどうか定かではないからだが、彼が養成課程の同期の誰とも関わろうとしていなかったことを事情通のアロイスから聞いたのかもしれない。どちらにせよ、他の部隊とはいえ、同じ空母に乗艦するパイロットの仲間として、同期のアロイスを紹介してやろうというマクシミリアンの配慮だった。

 ベルンハルトの動揺をよそに、マーリオンの講話は既に始まっていた。

「――みなさんは、このような非常事態に新しい部隊へと配属となってしまったわけですが、幸い初戦ではドラグーンを一機も失うことなく、負傷者もありませんでした。現在のところ敵の目的ははっきりしていません。今後、敵がどのように動くのか皆目見当もつかない状況です。ドラグーンの操縦にも、部隊の仲間ともまだ慣れていないところがあるのは重々承知の上ですが、今後のみなさんの奮闘に期待したいと思います。さて……」

 ミーティングは、マーリオンの講話の後、ドラグーンの運用方法と、今後の哨戒任務の順序や訓練の予定を説明するだけに留まるというごく簡単なもので、本当に顔合わせとしての意味合いが強いものだった。指し当たってベルンハルトに直接関係する予定は、今から約四時間後に予定されているドラグーン全機参加の模擬戦闘訓練だった。

 解散が指示されると、隊員たちはようやく緊張と弛緩を繰り返した複雑な空気から解放された。すぐに立ち上がる者、座ったまま伸びをする者など様々な形でくつろぎ、めいめいに口を開き始めた。

「――せっかく僕が忠告してあげたのに、期待を裏切らない人だね、君は」

「もう、なんとでも言ってくれ。純粋に事故なんだよ。事故」

「事故っていうより、ヴェルナーの一方的な不注意なんだからね。私と反対に歩いてる時点で遅刻決定。どれだけ方向音痴なの? 私と鉢合わせたおかげで、少しで済んだんだから感謝しなさいよね」

「うるせぇ。空が見えない場所では方向感覚が狂うんだよ」

「あ、またそうやって言い訳。私と鉢合わせたおかげで、少しで済んだんだから感謝しなさいよね」

 ミュリエルは自分より長身のベルンハルトの顎に向かって指差す。

「はいはい。遅刻寸前なのに長々と言いがかりをつけてくれてた奴がよく言うな」

「言いがかりじゃないもん! 正当な主張なんだから!」

 二人のやり取りを見て、ユーリイは深い溜息をつきながら、

「……余計なことを言わなければ良かったかな。僕からすれば二人とも遅刻したのは事実なんだから、どっちにより非があるのか言い争うのはエネルギーと時間の無駄遣いだと思うけどね」

 と至極まっとうな指摘をする。既に結果が出てしまったことについて後から議論するのはいかにも非効率だとでも言いたげだ。

「ぐっ……。痛いところを……」

 ベルンハルトは鋭い指摘に怯んだが、ミュリエルはそれでも黙らなかった。

「それはそうかもしれないけど、大事なのはそこじゃないのよ。あんた、友達いないでしょ?」

「非効率な議論をする間柄を友人関係だと言うのなら、そんな友人は要らないね」

「ああ言えばこう言う……!」

 一貫して冷めた態度の同期にミュリエルもいささか神経を逆撫でられているようではあったが、すぐに意地悪そうな笑みを浮かべてユーリイを横目に捉えた。

「あんたもその非効率な議論に混じっちゃってるのには気付いてるの?」

「もちろん気付いてるよ。でも、僕は必要最小限のことしか言ってないしね。お望みであればもう黙るし自分の部屋に帰るけど」

「女の子みたいな顔してるくせに可愛くなぁーい!」

 既にベルンハルトと顔見知りになっている同期の三人が部屋の片隅で固まっていたところ、その背後から近づいてくる人物がいることに誰も気付いていなかった。

「よっ! 新入り!」

 突然肩を力一杯叩かれ、驚く間もなくその流れでユーリイともども伸びてきた腕に首をがっちり絡め取られた。

「男が二人いてよかったな! 仲良くしなよ!」

「え? 二人? いや、実はこいつは……」

 女なんですよ、と言いかけたところで、すぐ目の前のユーリイに睨まれる視線に気付き、次の言葉を継げなくなった。首を極められて苦しげな表情ではあるが、その眼差しに込められた「僕が女だなんて〝誤情報〟を広めたら後でひどいよ」という言外の圧力を感じた。まだ室内にいるマーリオンにも視線を移してみたが、部下たちの微笑ましい光景に「楽しそうですね」とでも言うかのように、視線に気付いても僅かに首を傾げただけだ。知っていて知らない振りをしているだけなのか、彼女もまたユーリイが男性だと信じて疑っていないのかはわからない判然としないが、少なくとも、ベルンハルトに代わって訂正してはくれそうにない。

 地球統合政府の法制下では、一定の年齢に達すれば本人の性自認に基づき、煩雑な法的手続きを経ることなく公的文書における出生時の性別を一度だけ変更することが許されている。ただし、頻繁に性別を変更することは権利の濫用とされ、二度目からは裁判官を納得させうるだけの申請理由の陳述と、変更を許可する裁判所の決定が必要となり、その経緯と結果も公判記録として残る。性別はあくまでも自認に基づくものであるため、婚姻は異性間に限られるという定義も有名無実であり、同性婚も事実上許されている。そのため、二度目以上の変更をした実例は極めて稀である。あらゆる方面から考えても、ユーリイは入隊時から書類上は自己申告、公式記録ともに男性として扱われている可能性も十分ありえた。もっとも、艦上では公判記録を調べることは不可能だし、マーリオンと同等かそれ以上の権限がなければ軍のデータベースにアクセスすることもできないため、確認する方法もないのだが。

「ユーリイって男の名前だろ? なんか間違ってる?」

 自分の首を締め上げている腕の袖口にある階級章を見ると、ループの付いた青線が一本。同じ少尉であることはわかる。

「い、いえ、……先任の少尉殿。お名前を訊いても?」

「なんだ、聞いてなかったのかよ。十三人しかいないんだし、すぐに覚えなよっ。あたしはレティシア・ラファラン。第二小隊の二番機さ。よろしくなっ!」

 明朗快活で、ユーリイよりもよほど少年のような笑顔を見せるショートヘアの女性はレティシア・フローレンス・ラファラン少尉。頬の絆創膏が有り余った活力を象徴しているかのようだった。

「私からもよろしく。ユーリイ・ローゼフ少尉は私の小隊に配属ね。ラーニア・ローアス大尉よ」

 その名を聞き、ベルンハルトは辛うじて動く範囲で頭を向ける。

「ローアス大尉。お噂はかねがね……」

 ラーニア・ライラ・ローアス大尉は、マーリオンと同じく、先の内乱では撃墜王の上位にその名を連ねた技巧派のエース・パイロットの一人である。今回のドラグーン中隊編成とともに中尉から大尉に昇進し、第二小隊長を任されていた。

 彼女は優秀なパイロットであることの他に、浅黒い肌、艶やかな黒髪、特徴的な切れ長の目が千夜一夜物語に登場するような姫君に喩えられることもある美形としても知られている。穏やかで笑顔の絶えないマーリオンとは対照的に、言葉少なで表情の変化に乏しいラーニアは「クール・ビューティー」と呼ばれることも多く、特に女性から人気がある。

 心身ともに健全が本分のパイロットの中でも更に抜群のスタイルの持ち主でもあり、ファッション誌から専属モデルとして契約したいとのスカウトが何度もあったという噂もある。しかし、彼女はそれらの誘いをすべて軍務優先と固辞し続け、軍服以外の姿で誌面に掲載された例はいまだにない。それでも、私服や流行の最新ファッションでの再登場を切望する声は後を絶たず、多くの出版社をはじめとするメディアが今もラーニアの獲得を虎視眈々と狙っていると言われている。

 マーリオンとはまた別の意味での有名人である。

「なんだよ。ラーニアのことは知ってるくせに、あたしだけ知らないのかよ! つくづく失礼な奴だなっ!」

 ユーリイが解放された代わりに、今度は両腕で力任せに首を締められるベルンハルト。女性とはいえ、戦闘航宙機のパイロットとして鍛えられてきた腕力は馬鹿にできない。腕を叩いてギブ・アップの意を示すが、組まれた腕が緩むことない。

 一方、解放されたユーリイは「キジも鳴かずば撃たれまい」とばかりに、その場から距離をとり、襟を正す。

「自分だけ逃げるな、卑怯者!」

「そ、それこそ、なんとでも言うといいよ。男というだけで君と同じ目に遭うなんて理不尽だからね」

 よほど苦しかったと見え、ユーリイはレティシアの手の届かないところで咳払いをしながらベルンハルトとは無関係を装う。

 苦し紛れにミュリエルにすがるような視線を送ってみるが、

「私は女だし!」

 という一言ですげなくベルンハルトは見捨てられた。

「な、なんで俺だけ……?」

「直属の部下のライバルには特別厳しいに決まってるだろ!」

 緊張がほぐれて和気あいあいとした雰囲気が漂い始めた頃、またしても部屋の空気を一変させる大声が上がる。

ブリーフィング・ルームから出ようとした時に、大声に呼び止められる。

「ヴァイス少尉!」

 この威圧的な声は忘れようもない。そう、ベルンハルトに遅刻の罰を与えるように要求してきたルドミラの声だ。ベルンハルトが再びレティシアの腕を二度叩く。手から伝わる感触から冗談ではないものを感じ取ったのか今度はすぐに腕の力が緩んだ。しばらく前傾の姿勢になっていたベルンハルトは上半身を起こし、締められていた首をさすりながら念のためマーリオンの姿を探す。やはり、既に部屋に彼女はいない。ベルンハルトは小さく溜息をつくと仕方なく振り返る。ミュリエルはベルンハルトの影に隠れるように背中に寄り添い、不安そうに彼の左袖を掴んでいる。

「なんだ。まだ何か文句があるのか。少佐の見てないところだったら、便所掃除でもなんでもしてやるよ」

 姑息にも中隊長のマーリオンがいなくなったのを見計らってから呼びつけたことを指摘したベルンハルトの挑発的な言動にもやはり表情ひとつ変えず、ルドミラは鋭い視線でベルンハルトを捉える。

「……少佐にかばってもらったからと調子に乗っていい気になるな」

 正面から対峙する両者。他のパイロット達も再び訪れた一触即発の雰囲気にその場を離れることができなくなる。

「そもそも、貴様のような男がドラグーンのパイロットに選ばれたなどということ自体が間違いなのだ。少佐もそれが追々わかっていくことだろう……!」

「その台詞、そっくりそのままお返しする」

 少しもひるむことなく言い返すベルンハルト。彼は、わざとらしく思い出したように付け加える。

「ああ。男じゃなくて、一応、女だったか?」

 一応、を過度に強調したその言葉に、ルドミラは更に眉間の皺を深くし、

「貴様には上官に対する口のきき方というものを教えてやる必要があるようだな」

 と言い放ちつつ体を右に向けて二、三歩進み、首だけをベルンハルトのほうに向けたまま、あくまで直立の姿勢を崩さない。彼女は非難するような人差し指をベルンハルトに向けるようなことはなかったが、それがかえって相手の目からお互いの視線をそらすことを許さず、またその機会も与えなかった。

 彼女は、そのままベルンハルトの横を通り抜ける。ミュリエルはルドミラの顔を非難を込めた上目遣いで見上げている。ルドミラはその視線に気付き、ミュリエルを威圧的な視線で射抜いた。

「アンダーソン少尉。貴様は私の小隊だな。貴様もドラグーンのパイロットに選ばれたのなら、それに恥じない仕事をして見せることだな」

 そうして通路へ出て行くルドミラを見送るベルンハルトとミュリエルの二人は、一回顔を見合わせると、去っていくルドミラの背中に向かい、舌を出した。

「なっかなか意気の合うてる二人やな」

 突然の背後からの陽気な声に二人は驚いて振り返る。そこには、オールバックにした金髪で、切れ長の目をした長身の男が立っていた。彼は悪いお手本を体現するかのように軍服を崩して着ている。ベルンハルトはこの男を知っている。ボレアスでフォーマルハウトまで案内してくれた、そしてベルンハルトの目の前で反乱を起こした艦隊のハンターを撃墜したマクシミリアン・マクスウェル大尉だ。彼の隣りにはアロイスもいる。初めて会った時は制服を規則どおりに身に着けていたが、マクシミリアンの真似なのか、彼は既に襟を大きく開けた〝楽な格好〟をしていた。

 ミュリエルはマクシミリアンの階級章を見て反射的に敬礼を施す。しかし、ベルンハルトは敬礼もせずマクシミリアンに話し掛けた。

「マクスウェル大尉じゃないですか」

「ちょっと、ヴェルナー? 大尉に失礼でしょ!」

 ミュリエルは敬礼したままの姿勢でベルンハルトの無礼を諌める。

「ええって、ええって。そないにかしこまらんでも。わいはもともと堅苦しいのは苦手やねん」

 悪ガキのような、無邪気さと爽快さを併せ持ったような笑顔のマクシミリアンに対し、

「はぁ」

 と気の抜けたような返事をしつつ敬礼していた腕を胸まで下ろすミュリエル。

「さっきの、アーヴェンとか言うとったか、ごっつぅきっついねーちゃんやなぁ。通路からでもドスの利いた声が聞こえたで。でも、気にすることなんてあらへんからな。軍人にはえてしてあんな奴が多いんやから」

 マクシミリアンは、おどけたように言う。

「わいはハンターのパイロットやから、あのねーちゃんは直接の部下やないけど、うまくやっとかんと、後ろからドサクサにまぎれて……」

 マクシミリアンは右手の指をピストルの形に折り曲げてベルンハルトの顔を指差し、照準するように片目をつぶり、そのピストルを撃つような仕草を見せた。

「ズドンってこともあるさかいな」

 ベルンハルトとミュリエルは、ごくりと唾を飲んだ。確かに、少佐が裁かないなら自分が、とばかりに、あの女ならやりかねない、そんな気がしたのだ。

「冗談や、冗談。故意の味方殺しは重罪やからな。あのねーちゃんもいくらなんでも自分が軍法会議にかけられるようなことはせんやろ」

 マクシミリアンは深刻な顔になってしまったベルンハルトとミュリエルに笑いながら、緊張感なく手をひらひら振った。

「申し遅れました。ミュリエル・アンダーソン少尉です。よろしくお願いします。大尉」

 ミュリエルは我に返ってマクシミリアンに向かって自己紹介する。

「おぉ。わいはマクシミリアン・マクスウェル。こんなごっつかわいい女の子がこの艦に乗ってるなんて、めっちゃ嬉しいわ」

 どこまで本気なのかはわからない。しかし、鼻先がぶつからんほどに顔を近づけてそう言われると、一歩引いてしまうミュリエルの気持ちを慮ると無理もないと思えた。

「ま、上官といえど、個人同士のいざこざには首をあまり突っ込みたくないさかい、うまくやってな」

 マクシミリアンはそのままふらふらと歩いて立ち去っていく。

 それまで黙っていたアロイスがベルンハルトに近寄ってきて、

「どうだ? 驚いたか?」

 とマクシミリアンに負けずとも劣らない悪ガキのような笑顔で耳打ちする。

「ああ、まぁな……」

「なんだよ、もっと驚くと思ったのに、時化た面だなぁ。嫌なら俺と交代するか? 喜んで代わってやるぜ?」

 ベルンハルトはアロイスの冗談としか思えない提案に小さく笑う。

「それだけは遠慮しておく」

「なんだ、やっぱり女だらけの部隊に未練があるんじゃないか」

 両手を広げて大袈裟に言うアロイス。ベルンハルトは、自分が何を理由に断っているのか解っていて彼はわざとそちらの方向へ話を転がしたいのだな、と理解した。彼も元はと言えばドラグーンの操縦席を夢見た者だったのだから、ベルンハルトの気持ちを理解できないはずがない。

「ヴェルナー、誰?」

 アロイスが現れていつの間にか爪弾きにされていたミュリエルがベルンハルトを見上げながらアロイスを指差す。階級章を見て少なくとも上官でないことは判るため、彼女の言葉にも遠慮がない。

「ああ、そうだったな。彼はアロイス・グデーリアン少尉。ハンターのパイロットだ」

 苦笑いしながらもアロイスをミュリエルに紹介してやるベルンハルト。

「よぉ! 久しぶりだな、ミュリエル・アンダーソン少尉!」

 笑顔のアロイスの一言に、あなたのことなんか知らないわ、と言うかのように眉をひそめるミュリエル。しばらく経っても彼女の反応が変わらないのを見ると、

「……二人ともそれかよ」

 と言いながらアロイスの顔からは笑顔が消える。そして、彼は下手な演劇俳優のように手で目を覆いつつ天を仰ぎ、悲しみを表現してみせる。

「嗚呼、なんて友達甲斐のない奴らなんだ。俺のピュアなハートは既にずたずただぜ……」

「……彼は俺たちと同じ戦闘航宙機操縦士養成課程の同期なんだ」

 溜息をつきつつ仕方なくミュリエルに説明してやるベルンハルト。しかし、ミュリエルはそれに即答し、

「えー? でも、知らないものは知らなぁい。別に同期はヴェルナーとあなただけじゃないもの」

 と思ったことをはっきり口にする。その言葉は少しだけアロイスの気に障ったようだったが、彼はあえて笑顔を作ってミュリエルの顔の高さに合うように腰を折り曲げる。

「じゃぁ、これから覚えてくれよ。可愛いけど口の悪いお嬢さん」

「考えておくわ。一言多いお調子者」

 アロイスは、それでも打ち解けてくれそうにないミュリエルに溜息をついて掌を上に向けると、再びベルンハルトに向き直る。

「まぁ、同じ部隊の同僚にして同期がこんなんじゃ、色々苦労もあるだろうから、いつでも相談に来てくれよ。女に言えない悩みも色々あるだろ?」

「余計なお世話よ。あなたこそ、ヴェルナーに迷惑かけないでよね」

 アロイスは口を挟むミュリエルには目もくれず、

「じゃぁな、ヴェルナー!」

 とベルンハルトに手を振りながら、マクシミリアンの去っていった方向へ彼を追うように走り去って行った。いつの間にか、ミュリエルの口から出ていた彼の愛称を使って。

 しばらく彼の背中を見送る二人。相変わらず通路には慌しく動き回るフォーマルハウトの乗組員たちが見える。

 ふとミュリエルが口を開く。

「ねぇ、ヴェルナー、あんな馬鹿のことは忘れて、口直しに格納庫に行ってみない? 自分のドラグーン、もう一度ちゃんと見たいでしょ?」

「あ、ああ。それはもちろんいいが……。おい、わかったから、引っ張るなよ!」

 言い終わる前に、ベルンハルトはミュリエルに腕を掴まれ、半ば引きずられるようにして格納庫へ向かっていった。

 

   

 

 ベルンハルトは、再びドラグーンの前に来ていた。重苦しい金属の音と核融合反応炉の唸りと喧騒に埋め尽くされた広大なドラグーン格納庫。重量物を取り扱う関係上、重力制御を地球の重力の半分ほどにまで意図的に弱くしており、その中を整備兵が軽やかにステップを踏むように、しかし忙しそうに走り回っている。

 ミュリエルは、「後でね!」という一言を残して既に自分の機体へ走り去っている。

「やっぱりデカいなぁ……」

 ベルンハルトは思わず呟く。彼の前にある機体は十三号機。尾翼に刻まれたGUSFでの機体登録番号の他にコックピットの後方下面、ちょうどMARIONシステムが搭載されている場所付近にドラグーン固有の機体番号がローマ数字で「ⅩⅢ」と大きく太字で刻まれている。ドラグーンは全部で十五機あるため、中隊長機であるマーリオン機の「」から始まり、「ⅩⅤ」まである。ミュリエルの機体である十一号機には同様に「ⅩⅠ」と刻まれているはずだ。ドラグーン中隊は総勢十三名であることが既にわかっているため、現時点では十四号機と十五号機の主は不在ということになる。

 他に固有機体を示すものは機首の上面に描かれている、菱形に配列された四つの六角形の模様がある。それぞれの六角形は、機体後方寄りから時計回りに一、二、四、八の数価を持っている。したがって、ベルンハルトの十三号機は二を表す六角形だけが「0」を示す空色に塗装され、それを除く三つの六角形が「1」を示す白に塗装されている。一、四、八を足すと十三になるから、その機体番号を知ることができる。電子計算機に詳しい者であれば、それらの六角形は四桁の二進数を示していると容易に察しがつくだろう。

 改めて気が付いてみれば、十三とはあまり縁起の良い数字とは言えない。世の中では俗に「十三恐怖症」とまで言われ、何か不吉なことがあればすべて十三という数字に結び付けようとする精神的傾向さえある。しかし、十三の番号を振られた大昔の宇宙船が月面着陸には失敗したものの危機的な事故に見舞われながらも死傷者を出すことなく地球へ奇跡の生還を遂げたことは有名な史実である。それに十三を不吉な数字としない文化もあることを考え合わせれば、世界が統合されてしまった今ではそれも詮無い迷信だと、頭の中を掠めた根拠のない僅かな不安を振り払った。

 そして、ベルンハルトは自分の機体の前から、中隊の機体を閲兵するように、頭だけを右上に向け、後ろ手に両手を組んで歩き出す。ドラグーン各機は、機体各所に備えられた点検・保守用アクセス・ハッチを開放され、内部構造の一部が覗き見えていた。コックピットの操縦席から見てちょうど右方にあたるアクセス・ハッチには故障診断と戦闘解析データ取得のためのGUSF軍用標準規格のアンビリカル・ケーブルが挿入されており、ドラグーンの頭脳たるMARIONシステムはベルンハルトたちパイロットでも細かいところは理解していない技術と数値の世界に送り込まれているようだった。

 何機かの機体の前を通り過ぎた時だった。格納庫の喧騒に混じって誰かが誰かに話し掛けているかすかな声が聞こえた。女性の声だ。

 ベルンハルトは立ち止まり、その話し声がどこから聞こえるのかと首を左右に振った。周囲には誰も話をしている女性はいない。整備兵にも女性は何人かいるが、この騒々しい格納庫でベルンハルトから声が聞こえるほど近いところにいる女性整備兵はいないようだった。少なくとも、自分に話しかける声ではないようだ。

 ふと、ベルンハルトが上を見上げると、「」のローマ数字が刻まれたドラグーン三号機のコックピットのキャノピーが開いており、そこから声がすることに気が付いた。不審に思ったベルンハルトは、三号機のタラップを昇る。間違いない。この声は三号機のコックピットから聞こえるものだ。

「……いい? これからは私のことは名前で呼ぶのよ」

『ソレハ命令デスカ? マイ・マスター』

「ううん。命令じゃない。これは、〝お願い〟よ」

 一段一段上がっていくうちに、話し声ははっきりと聞こえてくる。

「あなたにお名前はないの?」

『質問ノ意味ガヨク解リマセン、マイ・マスター・リリア。私ハ、『MARIONシステム』トイウ名称デス』

「ううん、そうじゃなくて。それは私たちが『人間です』って言ってるのと同じことなの。あなた個人の名前を訊きたいの」

『……データベースニ照会シテミマシタガ、私ノ名前ハ登録サレテイナイヨウデス。固有番号ハ『三』デス。又ハ、開発中ニ三番目ヲ示ス『C』ト呼バレテイタ記録ガアリマス』

「C……。そんな、たったの、一文字……」

(MARIONシステムと話をしているのか……?)

 ベルンハルトは、開放されたままのキャノピーから三号機のコックピットを覗き込んだ。

 操縦席に座っていた人物は、突然ベルンハルトが現れたのに驚き、体を強張らせて彼を見た。その時、その人物の髪の毛が大きく跳ねたように見えた。コックピットにいたのは、小柄な女性だった。茶色のショートヘア。やや気が弱そうだが、優しい光を湛えている瞳。年齢はミュリエルと同じくらいだろうか。

「いや。驚かせるつもりはなかったんだ。君は……アイスナー少尉? 慣熟訓練の時一緒だったよな」

 恐々とした瞳から静かな非難を受けているように思えて、慌てて言葉を連ねるベルンハルト。

「はい……。リリア・アイスナー……です」

「ああ、うん、そうそう。俺は……」

「あ、あの……。わ、わかります……ヴァイス少尉です……よね。少尉のことは……覚えてます……」

 リリアは、もじもじと居心地悪そうに、視線を自分の足元のフットペダル辺りにさまよわせた。いまだに表情を強張らせている。

 二人の間に奇妙な沈黙が訪れる。

「え、えーと。今コックピットから話し声が聞こえたんで、不思議に思って見に来ちまったんだ。驚かせてしまったのなら謝る」

 たまらず口を開いたのはベルンハルト。リリアは、ベルンハルトの謝罪に対して言葉はなく、そんなことはない、と言うように、首を左右に振って応えた。ベルンハルトは、そんなリリアを見て安心したような表情を見せると、再び本題に戻った。

「アイスナー少尉は、その、今MARIONと話をしていたのか?」

 リリアはベルンハルトの言葉を聞き、顔を真っ赤にして俯いた。いくら人間の自然言語を理解し、同様に話すとはいえ、人でない物に話しかけている姿は普通の者から見れば奇異に映ることだろう。出撃中でもなければ待機中でもないのに、戦術コンピュータであるMARIONシステムに何をさせるわけでもなく、顔もない相手とただ単純に会話を楽しむというのも奇妙な光景だ。それならば、人間の姿をしたOMDのほうがまだ適任だ。もちろん、コストを度外視すれば、だが。

 ベルンハルトはその様子を見てリリアの心境を察し、話題を変えようと頭の中から話のきっかけを探した。

 しかし、ベルンハルトが口を開く前に、リリアの返事がかなり遅れて返ってきた。

「……はい……」

 ひとまず、会話が成立したようなので、ベルンハルトはこの話を続けることにした。しかし、次の質問をする前にリリアはベルンハルトの質問を先回りするように、喋り始めた。

「このドラグーンに搭載されているMARIONシステムは、ご存知のようにボイス応答型AIコンピュータなんです。AIと言っても、単純なものではなくて、人間と同じように柔軟な思考ができるんです。マスターである私たちが望むのであれば、今私がやっていたように、呼び方を変えさせたり、口調を変えさせたりすることもできるんです」

「でも、『変えさせる』ということは、結局は命令なわけだろう? 君をリリアと呼ぶことにMARIONの意思は関係してないんじゃないのか?」

 ベルンハルトは、三号機のコックピットの縁に手を突き、楽な姿勢をとると、リリアに疑問を投げかける。

「……そうですね。結局は戦術コンピュータなわけですから、外部から与えられた入力に対して出力をするだけです。でも、私はあえて彼女にもっと親近感を持てるようにと思って……」

 MARIONシステムを〝彼女〟と呼ぶリリアは、愛おしそうな眼差しを向けながら、グラス・コックピットのディスプレイをそっと指でなぞる。

 ベルンハルトにはリリアの気持ちがすぐには理解できなかった。しかし、自分も自動車を運転することもあり、自動車好きが毎日のように自分の車をピカピカに磨いていたり、機械である自動車を〝相棒〟と呼ぶ心境は友人たちから聞いて知っていた。多分、それと同じかその延長にあるものだろうと解釈した。

 もっとも、コンピュータを相手に会話するのであれば、仮想現実世界の住人と話すほうが、軍事関連情報以外に話題がないMARIONシステムとの会話よりも遙かに楽しいはずだ。今のVR技術であれば本物の人間と見紛うばかりの精巧なCGで好みの話し相手を作り出すことができるし、顔や仕草には表情があり、声色にも感情をこめられる。会話に特化したAIは自動的にグローバル・ネットワークから膨大な情報を集めてくるため話題には事欠かない上うえ、会話の内容からユーザーの嗜好を学習してデータを蓄積していく能力にも長けている。

 それはリリアも理解しているだろう。が、おそらく、彼女がMARIONシステムに求めているのはそういったことではないだろうし、比較的理解を得やすいと思われるから会話能力を例にとったのであって、言葉を話せる、話せないは本質的にそれほど重要なことではないのかもしれない。

「つまりあれだな。アイスナー少尉にとって、MARIONは単なるコンピュータや道具ではなくて、パートナーなんだな」

 そう微笑んで言うベルンハルトの目をリリアは真正面から捉え、少し驚いたような顔をした。しかしすぐ、これ以上にないほどに、顔をほころばせて彼女は応えた。

「はい!」

 ベルンハルトは、嬉しそうなリリアの顔を見ると、コックピットの縁から手を放し、体を起こした。

「じゃぁ、俺は行くけど。またな。アイスナー少尉」

 

 かの男は目の前にいる。その男、ベルンハルト・ヴァイス少尉は人懐こそうな笑顔を浮かべると、体を起こし、この場から立ち去ろうとしている。なんとかしてこの男を引き留めなければならない。そうしなければ、何も前進しない。そんな気がしたのだ。

 リリアの口を衝いて出た言葉には、自分でも驚愕した。

「私と……。おと……お友達になってください!」

 タラップを既に二、三段降りていたベルンハルトは、突然降ってきた大声に目を丸くして再び三号機のコックピットを覗き込んだ。

 鼻から上だけを覗かせているベルンハルトとの視線がかち合うと、リリアは気まずそうに俯き、小柄な体を更に縮める。きっと変な子だと思われたに違いない。既に人外の物であるMARIONシステムとさも楽しげに会話をしているところを目撃されてしまった。暗い趣味の持ち主だと思われてしまったかもしれない。リリアは、客観的に見て私みたいな子と友達になりたい人なんていない、と決め付けてかかってしまっていた。

 しかし、彼はすぐに再びタラップを昇ると白い歯を見せ、

「もちろんだ、アイスナー少尉。同じ艦に配属された時点で同じ釜の飯を食う仲間じゃないか。仲良くしようぜ」

 と右手を差し出して握手を求めてきた。

 リリアは、一瞬躊躇したが、はにかんだように微笑んで彼の右手を握り返した。もっと早く話しかけていれば良かった、と少し後悔しながら。

「あ、あの。リリアでいいです……」

 再びタラップを降りる気になったベルンハルトを呼び止めるように最後にリリアが言う。

「そうか。じゃぁ、俺のこともヴェルナーでいいぞ」

 そして彼はリリアの鼻先に人差し指を向けてこう続ける。

「これは〝お願い〟だ」

 ベルンハルトの言葉にリリアはきょとんとしていたが、すぐに嬉しそうに頷いた。

 

 その男の顔を覚えたのは戦闘航宙機操縦士養成課程の卒業式の日だった。それまで当事者以外の候補生全員に伏せられていたドラグーン専任パイロットが明らかになった日でもある。彼女は既に自分がドラグーンのパイロットに選抜されていることを承知していたが、当時大尉だったマーリオン・ボルンを除く他の専任パイロットは全員男性になるだろうと予想していた。

 何故ならば、彼女は航宙機に関する膨大な知識に裏付けられた明晰な頭脳を持ち、小柄で非力でありながらも身体能力に劣る部分は創意工夫によって克服することで、養成課程で極めて優秀な成績を修めていたからだ。ドラグーンのパイロット・シートを射止めるためには候補生全員が努力を惜しむ必要などなかったのは同条件なのだから、自惚れなどではなかった。方法はまったく正当なものであり、彼女自身が夢の操縦席を獲得したことを彼女は気に病むようなことはなかった。成績は逐一周知されることもあったし、むしろ、全員が文字通り死力を尽くしたのであれば、選抜されたことを単に「幸運だっただけ」とうそぶいたり、公表された後も認めなかったりするほうが彼らに対して失礼だとも思っていた。もともと少ない女性候補生だけに絞れば主席だったこともあり、運良くドラグーンのパイロットに選ばれた女性候補生は自分だけだと思っていた。それも無理もないことである。彼女もまた、ドラグーンのパイロットは成績上位の者から順に選ばれるものだと勘違いしていた者の一人だった。

 ところが卒業式の日、他の候補生たちが教官から聞き出してきた情報を総合すると、事実は彼女の予想とは大きく異なっていることが判った。その日を迎えた時点で広げた鳥類の両翼を模った記章、通称ウィング・マークを与えられ、GUSFの正規航宙機パイロットとなった候補生達は既に候補生ではないため、決定事項を伏せ続ける必要がなくなったのである。養成課程からドラグーンの専任パイロットに選抜されたのは全部で五名。そのうち男性候補生と明確に判明しているのはたった一人。もう一名いるようだったが、その人物は自称男性であるが、女性だと言われれば信じてしまいそうなほどの華奢な美少年という噂だった。彼女を含む残り三名は女性候補生だったのである。身体能力の面では優るであろう、その男性と自称男性の候補生でさえ、成績は中の上程度だったと聞き及んでいることから見ても、養成課程での成績はドラグーンの専任パイロット選抜には無関係であることが容易に想像できた。女性候補生のほうが多いことも驚きではあったが、伝え聞いたところによれば現役の航宙機パイロットから選抜された者も全員女性とのことであり、吃驚に拍車をかけた。その時点では確定した情報ではなかったものの、パイロット全体の男女比率で見れば男性のほうが圧倒的多数だが、ドラグーンの専任パイロットに関してのみ言えば、それは完全に逆転していた。

 彼女、リリア・アンネリーゼ・アイスナーは、純粋にその男性パイロットたちに興味を持った。

 養成課程で成績上位だった者からしてみれば、必死の努力を無にされた徒労感は計り知れず、大した努力などせずとも向こうから勝手に転がり込んできた幸運をたまたま手に入れただけのように見える男に対して妬みや嫉みの言葉のひとつやふたつ出てきそうなものだ。しかし、リリアが持った興味はそういった類の関心ではなかった。とにかく、どんな人物なのか純粋に知りたかった。成績優秀でなかったのならば、どんな理由でドラグーンのパイロットに選ばれたのか。それは運命的な必然なのか、神の悪戯としか思えないただの偶然なのか。

 しかし、リリアは引っ込み思案で航宙機以外のこととなると積極性を発揮できない。およそ軍人向きでない性格をしており、かの男性パイロットに話しかけることはおろか、挨拶すらまともに交わせなかった。一方、美少年パイロットのほうは厭世的な雰囲気を醸しており、人と関わらないようにしているようにさえ見えたため、リリアにとってはますます敷居が高かった。

 リリアにはひとつだけ悩みがあった。一言で言えば、天性の才能に恵まれた者故の孤独、である。養成課程に在籍していた最初の二年のうちは数少ない女性候補生のグループに混じっていたこともあった。しかし、三年目になり、いざドラグーン導入の噂が流れると、上から数えて十四位以内、つまりドラグーンの機体数と釣り合いのとれる順位にいる好成績のリリアは、かの機体の操縦席に最も近い者として羨望や嫉妬の対象となった。結果として、もともと少ない女性候補生の仲間からもよそよそしい挨拶を交わす程度に距離をとられるようになっていった。彼女らに悪気があったのではないことは解っている。自分が彼女らの立場だったら成績上位者を妬まずにいられたかどうかはわからなかったからだ。

 幸い、慣熟訓練が始まってからはミュリエルという話し相手もできたが、彼女は存外にもドラグーンに興味がなく、たまたまパイロットに選ばれてしまったことは衝撃的を通り越して呆然としたと本人も言っていた。ミュリエルは女性同士で群れるのが好きではなく、いつも男性候補生に混じっているのが常であったため、それまでリリアとは接点がなかった。また、彼女は理屈よりも直感を優先する性格でもあり、リリアとは何から何まで正反対の性質を持っている人物であった。友人としてミュリエルが役者不足であったわけではないが、後になって思えば、純粋にドラグーンのことを話し合えるという意味で気が置けない友人が欲しかったのかもしれない。

 

「そうだ。さっき聞いたんですけど、MARIONシステムには名前がないんです!」

 少し興奮した様子でベルンハルトのほうへ身を乗り出すリリア。ベルンハルトは思わず仰け反る。

「は? 名前? MARIONシステムの?」

「三号機だから『C』だなんて、かわいそうだと思いませんか?」

「お、おう……。そ、そうかもしれないな……」

 ベルンハルトにとっては、それほどかわいそうなこととは思えなかったが、同型機が十五機もあるのだからすべてをMARIONと呼ぶのでは紛らわしいと言えば紛らわしい。そのうえ、中隊長がマーリオンであり同名ときている。マクレイン・エアロスペース社の技術者も識別の必要があると思ったからこそ、たった一文字とはいえ、仮の名前を与えていたのだろう。

 三号機の専任パイロットはリリアと決まっているから、MARIONシステムをどう呼ぶかは本人の自由だ。長すぎると思えばもっと短縮して呼ぶことにすればいいし、記号のような呼称が嫌ならば好きな名前を付ければいい。コンピュータに性別などないのだから無理に女性的な名前でなくとも構わない。コンピュータは女性の名で呼ぶものだ、という気象現象や水上船舶のような伝統も聞いたことがない。

 ベルンハルト自身はマーリオンを呼び捨てにすることはまずないから、基本通りに『マリオン』と呼ぶことには抵抗がない。しかし、人間が物心つく頃には自分の呼び名を既に認識しているように、MARIONシステムが自己を認識した時に名前と呼べるものがなかったことをリリアは嘆いているのだと解釈した。

「リリアが愛称を考えてやるのでは、駄目なんだよ……な?」

 リリアはそのとおりだと力説する代わりに、ベルンハルトの瞳を真っ直ぐに捉えたまま黙って大きく頷く。

 造った側の人間に尋ねるのが一番手っ取り早いんだがな、と思い至り、

「そうだよな……。何かいい方法がないか俺も考えてみる」

 と、ひとまずすぐには答えが出そうにない問題を一旦締めくくる。

 ベルンハルトはその後、リリアに短く別れの挨拶を告げると、タラップを降りようと視線を足元に落としたが、ふと、何かを思い出したようにまたリリアに顔を向けた。

「……そうだ。リリアはドラグーンのこと詳しいようだけど……」

「はい?」

「いや、なんでもない……。今のナシ」

 赤い機体の男が言っていた言葉の意味を彼女に問おうとしたが、なんとなく、この話を他人に話してしまうとあの言葉を自分が真に受けてしまっているようで、口に出したくなかった。これだけドラグーンに愛情にも近い信頼を寄せているリリアを見ていると、あの男の言葉がひどく荒唐無稽な、ただの思い込みにも思えてくる。

 ベルンハルトは再びタラップを降り始めた。

 

   

 

 フォーマルハウトのカタパルトから次々に射出される十三機のドラグーン。当初の予定どおり、ドラグーン中隊全機による模擬戦を開始した。中隊を第一小隊及び第二小隊の七機で構成されるアルファ・チーム、第三小隊及び第四小隊による六機のブラボー・チームに分けて団体戦を想定して実施される。

 二つのチームは五百キロメートル以上の相対距離をとる。秒速八キロメートルを超える速度で飛行する航宙機ならば、相手が動いていなくても一分程度で接触する。訓練開始前の今でさえまったく動いていないわけではなく、フォーマルハウトとの相対距離が一定になるように秒速数キロメートルの単位で漂流している。

 ドラグーンが原型機の十五機しかない現状では、通常は同機種間の戦闘はありえないが、知りうる限りドラグーンより高性能の機体が存在しないことを考えれば最適な訓練相手とも言えた。各員とも慣熟訓練を受けてきてはいるが、ドラグーン同士での模擬戦闘訓練は初めてだった。

 ベルンハルトは、MARIONシステムに訓練モードへの移行を抜かりなく指示し、第三小隊及び第四小隊の各機を仮想敵機に指定した。次に武装コンソールを呼び出し、すべて安全装置が間違いなくかかっていることを目視で確認する。これで、トリガーを引いても出る弾はすべてMARIONシステムがキャノピー全面のモニターに描き出す虚構のコンピュータ映像となって映し出されるだけとなる。念のため、実弾と見間違わないようにモニターに表示される訓練弾は曳光弾のような特別な着色を施される仕様になっている。傍から見れば、ただ複数のドラグーンが飛び回っているだけに見えるだろう。

『繰り返しますが、これは訓練です。警戒中なので実弾も搭載してもらっていますが、あくまでも敵襲に備えた保険です。間違っても撃たないように。一発でも実弾を撃った者は階級に関係なく懲罰を与えますからそのつもりで』

 念には念を入れて、マーリオンの中隊長機から全機を訓練モードに移行させ、全武装を封止するマスター・フライト・オーダーと呼ばれる優先上級指令が戦術データ・リンクを通じて送られてくる。この封止は、規則の上では同等の権限を持つ飛行隊長機の指令か、母艦であるフォーマルハウトから訓練中止を指示する、更に上級の指令がない限り解除されることはない。

 ただし、スペース・デブリ等の漂流物に見通し線を頻繁に遮られたり、距離が離れすぎたりした場合や、敵対性の強力な敵対性電子妨害を受けた場合などにより隊長機や母艦との通信品質を保てない場合や、特段の理由がある場合は搭乗者の判断で訓練モードを解除して実弾を使用することができる。航宙機パイロットは、このような自己の判断に責任を持つ必要があるため、航宙機パイロットは少尉以上の士官でなければならない。

『なお、被撃墜判定者は居住区画をランニング十周です』

 最後にマーリオンから手厳しいペナルティの予告があった。撃墜されると決まったわけではないが、ベルンハルトは思わず顔をしかめる。その理由はランニングの場所が居住区画だということだ。

 フォーマルハウトの居住区画は地球の重力とほぼ同等に保たれている。そのおかげで宇宙開発初期のようにチューブからではなくグラスから水を飲んだり、壁にマジックテープで固定された寝袋のような窮屈な寝具を使わなくても寝台から体が浮き上がらずに済んだりと、快適に過ごせるわけだが、宇宙での暮らしに慣れてくると地球並みの重力下での強度の運動をするとなると非常に厳しい条件となる。しかも、単なる体力維持や訓練のためではなく、被撃墜者のペナルティとしてランニングをさせられていることが誰の目にも明らかなように首から札をぶら下げられるのだ。札には『私は死にました』とか『ヘタクソ』などといった屈辱的な文言を仲間から好き勝手に書かれる。その辱めを受けたくないがために誰もが必死に撃墜を避けようとする。

 しかも、被撃墜者にはペナルティでランニングをさせられていることが誰の目にも明らかなように首から札をぶら下げられるのだ。札には『私は死にました』とか『ヘタクソ』など屈辱的な文言を仲間から好き勝手に書かれる。居住区画は最も人目につく場所でもあるため、嘲笑の対象にもなる。その辱めを受けたくないがために必死に撃墜を避けようとするのである。『ヴェルナー、聞こえる? 今すぐ謝ればさっき突き飛ばしたことは許してあげる』

 通信コンソールに映るミュリエルを見てベルンハルトは大きく溜息をつく。ヘルメットのバイザーを通して見ても彼女の目は爛々と輝き、自己の無謬性を微塵も疑っていないようだった。

「お前なぁ、あれは事故だろう? 根に持つ奴は嫌われるぜ。第一、遅れたのは自分のせいだって言ってただろう」

『あ、そう。どうしても謝らないって言うなら、真っ先に撃墜してあげる! 遅刻の話とは別だからね!』

 口の端を吊り上げて舌をぺろりと出して見せたミュリエルからの通信は一方的に切れた。

「くそっ。あいつテンション上がり過ぎじゃないか?」

(それとも、操縦桿握ると性格変わるとか……?)

 と自分の独り言に頭の中で答えを出してみる。自分はいたって冷静のつもりだったが、ドラグーンの操縦桿を握っているという事実に高揚感を感じないと言えば嘘になる。しかし、そうかと言って訓練とはいえ相手を撃墜するのを楽しもうという気分にもならない。

『訓練開始マデ、アト十秒』

 MARIONシステムからのカウント・ダウンが始まる。ゼロを迎えるまではスロットルを開いてもメイン・スラスターの推力が上がることはない。

『訓練開始』

 MARIONシステムの合図と同時に十三機のドラグーンが一斉に加速を開始する。第一小隊の他の三機に置いていかれまいとメイン・スラスターを焚く度に操縦席に押し付けられる感覚を味わうベルンハルト。マーリオンの一号機を先頭に、二号機のクラリッサと三号機のリリアが左右に続く。四番機であるベルンハルトの十三号機はクラリッサ機とリリア機のほぼ中間、後ろ寄りを占める。編隊を崩すことのないように三機との相対速度をゼロの近傍に調節するのは訓練どおりに操縦すれば造作もないことだったが、ヘッドアップ・ディスプレイに表示されているフォーマルハウトを基準とする相対速度は人間の限界をとうに過ぎた値を示していた。

 加速し始めて二十秒もすると、レーダーに探知が上がった。センサーの有効半径は五百キロメートルを優に上回るため、通常であれば訓練開始前からでも探知できる距離だが、ブラボー・チームもレーダー波を能動的に妨害する隠れ蓑のECMすなわちと略される電子対抗策を全開にしているため、一定以上の探知確率を確保できないとレーダー・コンソールモニターにもヘッドアップ・ディスプレイにも表示されない。ブラボー・チームを敵機として設定しているため、敵味方識別信号に応答はしていても、応答していない所属不明機としてMARIONシステムは報告している。したがって、ベルンハルトからではどの機体が誰の機体かまでは判別できない。

『アルファ・チーム全機、フォーメーション・チャーリーで散開。ブラボー・チームを阻止せよ』

 マーリオンからの命令とほぼ同時に、二号機と三号機がお互いに腹を見せ合うように機体をぴったり九十度横転するようにロールさせて一号機から離れていく。今までほぼゼロだった二機との相対速度が急速に上がっていくのを友軍機の青いシンボルが示している。近距離ではクラリッサ機とリリア機の機体全体が青く浮かび上がっていたが、距離が離れると同じく青色青の四角形のシンボルに変わっていく。一号機がピッチを上げ、背中を見せてベルンハルトから見て上方へ移動し始めたのとほぼ同時に操縦桿を押し込むと、十三号機は下方へ展開する。

 三次元レーダーの反応を見る限り、ブラボー・チームは散開せずにまとまって各個撃破の戦術を採ったようだ。更に運の悪いことに、ベルンハルトの十三号機を最初の目標に選んだようだった。彼我の距離が急速に縮まっていく。どんなに戦技に優れていたとしても、六対一ではあまりに分が悪すぎる。ベルンハルトは、フットペダルを蹴って水平方向に姿勢制御スラスターを焚き、無理矢理機体の向きを変えると、ブラボー・チームの進行方向から遠ざかろうとする。三半規管が水平に揺さぶられて目が回るような感覚に陥るが、構ってはいられない。

「こちらアルファ4・ヴァイス! 敵にターゲットされた。救援求む!」

 光学カメラにもはっきりとブラボー・チームの機体が映るようになると、囲い込むように追いすがってくるのが見えた。MARIONシステムに指示して光学カメラの一部を望遠にして映像を拡大してみると、その中に、間違いなくミュリエルの十一号機がいた。

『アルファ4。アルファ2・マクレイン了解。アルファ3と敵の背後に回り込んでいるわ。あと十秒持ちこたえなさい』

「了解」

 クラリッサからの通信に応じるベルンハルトだったが、彼女の顔が通信コンソールから消えてから、

「簡単に言うなよ……」

 と呟く。

 その間も、複数の敵機の火器管制レーダーに捉えられているという警告音が鳴り響く。ヘッドアップ・ディスプレイには赤い文字で《警告》という文字が明滅している。警告音は徐々にその間隔が縮まっていき、敵の有効射界である前面円錐形のボアサイトに入りつつあることを示していた。

 被ロックオンを報せる一続きの警告音が耳に届くと、ディスプレイに《危険》の文字が表示される前にベルンハルトは半ば反射的に操縦桿を倒して機体を横ロールさせる。機体の近傍をレーザーが通過していくのが見える。光学兵器の弾道は視認することができないが、敵機と自機の位置関係から弾道を計算し、モニターに表示させることができる。逆に言えば、ほぼ直線にしか進行しないレーザーだからこそ弾道を予測できる。

『ヴェルナー! 往生際が悪いわよ! さっさと撃墜されちゃいなさいよ!』

「テクニカル・オーダーに従えよ、ミュリィ! 一応敵同士なんだぞ!」

『そんなこと、どうだっていいのよ。あんたを撃墜さえできればね!』

 訓練中に仮想敵機とする編隊同士での通信を禁止している技術指令を無視したミュリエルの言葉を聞いた時、一瞬で答えが導かれた。ベルンハルトが標的にされたのはただ単に運が悪かったのではない。最初からブラボー・チームは敵味方識別信号を悪用して十三号機を特定していたのだ。

「くそっ。あの赤毛の差し金か……!」

 見えないはずの憎たらしい表情のルドミラに向かって悪態をつくベルンハルトだったが、今はとにかく敵の攻撃をやり過ごすしかない。操縦桿を緩やかに引き、同時に機体を横転させて進行方向をずらすバレル・ロールの要領で敵機のロックオンをかわす。相手の数が多すぎるため射軸をずらすだけでのに精一杯で、さすがに自分の射撃位置にまで持ってくるのは不可能のように思えた。

 

 逃げ回るベルンハルトの十三号機を視界に捉えたまま、ルドミラは口元を歪めていた。

(私に楯突いたことを後悔させてやる……!)

 この際、十三号機を撃墜できれば誰が撃墜してもよかった。思いの他、部下のミュリエルは十三号機撃墜に血道を上げてくれているようなので、もはや時間の問題とさえ思った。

 他の機体の砲撃をかわして逃げ込んでくる敵機を示す赤色の航跡を予測して照準を十三号機に定めた。

(これで終わりだ……!)

 ルドミラが撃墜の確信をもってリニア・キャノンのトリガーを引きかけた瞬間、彼我の機体の間に割り込む機体があった。ヘッドアップ・ディスプレイの表示は友軍機を示す青色をしており、《ドラグーン八号機》と表示されている。ルフィの機体だった。

 ルドミラは不愉快そうに眉間に皺を寄せると、

「目障りだ。奴隷人形め……!」

 と呟くなり、迷いもなく左手のスロットルに備えられているスイッチ群をある一定の規則に従って操作する。

 彼女の常識の中では、OMDが自分と同列などとは到底考えられなかった。視覚的にロボット然としていないというだけのことであり、プログラムに従って動く人形に過ぎず、奴隷と呼んでも差し支えのない物だと考えていた。また、OMDが持っているとされる感情も、人間との親和をはかるために構築されたソフトウェアと呼ばれる電子データに過ぎないというのが彼女の持論だった。

『警告。リニア・キャノンノ安全装置ヲ解除シヨウトシテイマス。マスター・フライト・オーダーニヨリ発砲ハ禁ジラレテイマス』

「黙れ。貴様の主は私だけだ」

 ルドミラは警告を発したMARIONシステムに有無を言わせず安全装置の解除を命じる。軍規に反する命令に対して判断に窮したMARIONシステムは即座に五基の超小型スーパーコンピュータに意見を求め、多数決による解を導き出した。

『……安全装置ヲ解除シマス』

「そうだ。それでいい。貴様は私の言葉に従ってさえいればいいのだ」

 目の前のディスプレイに表示された武装コンソールで安全装置の解除を確認すると、ルドミラは快感を味わうかのように白い歯を見せて笑みを浮かべた。下等な生物を見下すかのような視線を照準に絞り、迷わずリニア・キャノンのトリガーを引き込んだ。

 本来、航宙機の撃墜にリニア・キャノンを使う必要はない。最新鋭機のドラグーンといえども宇宙艦艇のような重装甲を備えているは考えにくく、代わりに俊敏な機動力を有している航宙機には光速で命中率の良いレーザーを使用するのが一般的だった。しかし、それでもなお大口径のリニア・キャノンを使用するのは、砲弾に充填された大量の炸薬で八号機を文字通り木っ端微塵にしたかったからに他ならなかった。

 砲弾は電磁誘導によって励起されたローレンツ力により秒速十キロメートルまで加速され、プラズマの尾を引いて八号機に向かって突き進んだ。ルドミラが必中を確信した時その瞬間、八号機がほんの僅かに姿勢制御スラスターを瞬かせ、彼女から見て右方へ滑った。砲弾は八号機を掠めもせず、遥か遠方へ飛び去っていった。

 一瞬、驚愕の表情を浮かべたルドミラだったが、すぐに忌々しげな視線をディスプレイに投げかけた。

「貴様……! 謀ったな……! 奴の機体に報せたな!?」

『多数決ノ結果、ソレガ最良ト判断シマシタ』

「機械の分際で私を謀るとは、いい度胸だ!」

 

『マスター、十号機ガ実弾ヲ使用シマシタ』

「何!? あいつ……! 本当に撃ちやがった!」

 ブラボー・チームからの攻撃を必死に凌いでいる最中に報告されたMARIONシステムの声にベルンハルトは大声をあげた。

「誰に向かって撃った? 俺にか!?」

『イイエ、標的ハドラグーン八号機デス。命中ハシマセンデシタ』

 八号機といえば、ルフィの機体だ。ベルンハルトは、先刻のブリーフィング・ルームの顔合わせでルフィがOMDと知らされた時の失笑が誰のものだったか今気付いた。実弾を使用し、まかり間違ったとしても直撃したらどうなるかは説明されるまでもない。ルドミラがルフィに対して明確な殺意があったということに、もはや疑いを差し挟む余地はない。

 すぐにマーリオンとの通信を試みる。

「隊長! 訓練の中止を……!」

『状況はこちらも把握しています。ですが、〝訓練〟は続行します。ただし、優先目標をアーヴェン中尉の十号機と定めます』

「了解! ルフィ、訓練宙域を離脱しろ!」

『え……? は、はい……?』

 ルフィは、本来は訓練相手であるベルンハルトからの通信にやや狼狽えているようだった。訓練中の仮想敵機との通信はテクニカル・オーダーに反しているだけでなく、小隊長であるサクラ・ウヅキ大尉からの指示でもないため、即座に従うわけにもいかない。自由意志がほとんど認められていない軍用OMDの立場というものをその時ベルンハルトは知った。

『ルフィ、そのようにさせていただきなさい。私からも許可しますわ。ボルン隊長もよろしくて?』

 第三小隊長の七号機、サクラ・ウヅキ大尉から追認の通信が入る。当然マーリオンも反対しないため、ルフィの八号機はブラボー・チームから反転離脱、フォーマルハウトへの帰艦コースについた。

 ベルンハルトもヘッドアップ・ディスプレイでルフィ機が反転したのを見届けると、今度はユーリイ機との回線を開いた。

「ユーリイ、手を貸せ!」

『僕は君の部下じゃないよ。けど、ひとつ貸しにしとくって言うんなら手を貸さないでもないよ』

「なんでもいい! 好きなだけツケとけ!」

『作戦はあるの? 少なくとも、ルーキーの僕たちじゃ、実戦経験もあるアーヴェン中尉には勝ち目がないと思うよ』

「俺に考えがある」

 

 ベルンハルトたちの通信が聞こえていないルドミラは、ルフィ機が先ほどのリニア・キャノンの発砲で肝を冷やし、逃げたのだと早合点していた。一方で、ベルンハルトの十三号機からは一時的に注意が逸れていたため、三次元レーダーを広域モードに変更して目標を捜していた。

 楽観的に考えていたルドミラだったが、僅かな異変には気が付いていた。先ほどまでベルンハルト機を猛追していたミュリエル機が徐々に後退し始めているのだ。発砲によるルフィ機の離脱に動揺しているのか、第三小隊の動きも悪い。自分の直属の部下である十二号機のルイーゼについては養成課程で最下位だったと聞いている。最初から戦力には数えてなどいなかった。

「ふん。ルーキーの集中力などこんなものか。足手まといがいなくなって清々する」

 他にも戦況に変化があった。最初は分散していたアルファ・チームがまとまり始め、後方に回り込んだラーニアの四号機、レティシアの五号機、クラリッサの二号機からの攻撃が自分に集中しつつあった。リリアの三号機は積極的な攻撃行動にこそ出てこないが、こちらの動きを牽制するように逃げ道を塞いでくる。

「ちっ。ただ撃ちまくるだけの五号機やルーキーの三号機はともかく、ローアス大尉の攻撃は正確で厄介だ」

 回避機動をとりながらも、このまま長期戦にもつれ込むと自身のほうが分が悪いと踏み、ルドミラは再び敵味方識別信号を用いてベルンハルト機の特定を試みた。とにかく上官を上官とも思わないあの男だけは撃墜しないと気が済まない。

 レーダーの航跡のひとつに指定しておいたベルンハルト機の敵味方識別信号の応答が重なった。

「見つけたぞ! 尻尾を巻いて逃げ出したのかと思ったぞ」

 ルドミラは、後方の追撃を振り切るためにメイン・スラスターを全開にし、目視できる距離にまでベルンハルト機に詰め寄る。都合良く後ろを見せており、周囲には他のアルファ・チームの機体もマーリオン機もいない。

 今度こそ、かの機体を撃墜すべく、ふらふらと逃げ回る核融合エンジンの閃きに照準を合わせる。火器管制レーダーは既に目標を捉えており、目標の位置情報を搭載火器に入力しつつ未来位置を予測し始まっている。

 ロックオンを報せるアラームが鳴り響き、ルドミラが必中の笑みを浮かべた瞬間、ベルンハルト機が急にピッチアップして機首を上げ、無防備な背中を見せた。

「コブラだと!?」

 意表を突かれ、自殺行為としか思えない機動にルドミラは一瞬トリガーを引く指の力を緩めてしまう。

 コブラとは、旧ソビエト連邦が設計した戦闘機の失速機動特性の高さを証明するために実演された曲技飛行である。デモンストレーションとしての意味合いが強く、実戦向きの機動ではない。初めて公開された時のパイロットの名をとって「プガチョフ・コブラ」と呼ばれることもある。大気圏での航空機のための機動であって、宇宙空間での航宙機にとっては無意味であることには間違いない。

「バカな奴め! 大気のない宇宙ではそんな曲芸なんの役にも立たん。的が大きくなるだけだ!」

 何かの罠かもしれない。そんな疑念が一瞬ルドミラの脳裏をよぎったが、ルーキーにそんな搦め手を考えている余裕はないはずだ、と断じ、トリガーに再び指を掛ける。

 次の瞬間、ベルンハルト機はそのままの姿勢でメイン・スラスターを目一杯に噴かした。ピッチダウンして元の姿勢に戻らなかったため、その機動はコブラではなかった。そのまま目標が上に逃げることも想定していたルドミラは、機体の左右に装備されている武装ユニットの砲口を十三号機に向かって追尾させ、今度こそトリガーを引き絞った。

「仕留めたか!?」

 上方へ飛び去った十三号機に自身が放ったレーザーが命中したかどうかにルドミラは気をとられていた。そちらに向けていた視界の端に違和感を覚え、視線を前に戻す。ヘッドアップ・ディスプレイの《危険》の表示の向こうのまさに目の前、こちら側に機首を向けているユーリイの六号機が忽然と現れていた。

「しまっ……!」

 ルドミラが言い終える前に、ユーリイ機のレーザーの砲口が瞬き、ルドミラ機は機首を打ち抜かれると同時にコックピット内が暗転した。被撃墜が判定された証拠だ。追い打ちのように、ヘッドアップ・ディスプレイには赤色の文字で《被撃墜》の表示が浮かぶ。

『ドラグーン十号機、ダウン』

 MARIONシステムは冷徹に宣告する。

 ルドミラは無駄と知りつつも、操縦桿やスロットルを乱暴に動かし、フットペダルを蹴飛ばすが、機体は何も反応しない。訓練終了が隊長機のマーリオンから指示されない限り、機体の制御はパイロットであるルドミラのもとには戻ってこない。彼女の心情を知ってか知らずか、MARIONシステムは何も言わず、沈黙を守っている。

「バカな……! この私が、ルーキーに、負けた、だと……!?」

 驚愕で見開かれた瞳から放たれる視線は自分の足下に落とされ、ルドミラは操縦桿を握り締めたままうなだれていた。荒い息がヘルメットのバイザーを曇らせ、額から滴る汗が頬を伝う。

 何故自分が撃墜されたのか、数瞬の後にはひとつの結論に辿り着いていた。

「IFFを切っていたのか!」

 通常はIFFと略される敵味方識別信号を切り、ユーリイ機はベルンハルト機と速度を同調させつつ同じ戦闘機動をしていたのだとルドミラは悟った。ベルンハルト機がコブラまがいの機動をして見せたのは、ユーリイ機が百八十度反転して攻撃態勢に入るのを隠すためだったのだ。あるいは、両機は最初から向かい合わせに飛行していたのかもしれないが、その場合はMARIONシステムのサポートがあったとしてもユーリイの操縦技術は天才的と言える。

 いずれにせよ、互いの距離が至近であれば、レーダーには一機のようにしか映らない。旧世紀の戦闘攻撃機も敵のレーダー網に捉えられる攻撃隊の数を誤魔化すために互いの翼がぶつからんばかりに近寄って編隊を組んでいた。まったく新しくもなく、それほど高等な戦術でもないが、ルドミラ機の前にはベルンハルト機しかいないという思い込みの裏をかかれた格好になった。最初はベルンハルト機を特定するために悪用していた敵味方識別信号に最後はルドミラが騙されたのだった。

 

   

 

   

 

 その時、ベルンハルトとミュリエルは小声で話しているもう一組のパイロットに気が付かなかった。

(レティ、落ち着きなさい)

(だって……!)

 長い髪の長身の女性は、ショートヘアの若いパイロットをたしなめてなんとか落ち着かせようとしている。若いパイロットは怒りと不安の入り混じったような瞳を足元に向けている。

 

 解散が指示されるとすぐに席を立ち、机の間を素早く通り抜け、同じく机を立とうとしていた他のパイロットたちの行く手を妨害しながら通路に飛び出していった者がいた。

「待ちなさい! レティ! どこへ行くの!?」

 ベルンハルトたちが唖然としている脇をすぐ別の女性パイロットがすり抜けて追いかける。

 瞬く間に二人のパイロットの背中が見えなくなった。何が起こったのかよくわからず、ベルンハルトをはじめとするドラグーンのパイロットたちはその場で立ち尽くしてしまう。

 その中でマーリオンだけがその事情を知るかのように、神妙な顔つきでブリーフィング・ルームの前方のドアから彼女らの背中を見送りながら退室した。

 いまひとつ状況を飲み込めないベルンハルトが気を取り直し、

 

「艦長に、艦長にお聞きしたいことがあります!」

 先ほどブリーフィング・ルームを飛び出したレティシア・ラファラン少尉は、フォーマルハウトの艦橋まで来ていた。彼女は、息を切らせつつ、フォーマルハウトの全責任を負う者を探していた。

「やめなさい! レティ!」

 後を追ってきたラーニア・ローアス大尉は、レティシアの肩を掴んで、艦橋に入ろうとするレティシアを必死で押さえようとする。

「何事だ。騒々しい」

 フォーマルハウトの副艦長アレクシス・バウアー中佐は、大声を張り上げて入ってきたレティシアたちを艦橋の少し高いところから見下ろして問い掛ける。もうすぐ五十路になるアレクシスは白髪交じりで、一見すると彼がフォーマルハウトの艦長なのではないかと思わせるような年季をその顔の皺に刻み込んでいる。

「あなたが艦長ですか!? あたしたちの、第三艦隊はどうなったんですか? 教えてください!」

 興奮しているレティシアの口から出た「第三艦隊」という言葉を聞いてアレクシスは一瞬眉をひそめる。とんだ誤解もあったようだが、彼はひとまず気にしないことにした。

「艦長……」

「こちらまで上がってきてもらってください」

 振り向きざまに判断を促そうとしたアレクシスの言葉を受け、シャオは即答した。

「そちらの大尉も艦長の前まで上がりなさい」

 アレクシスは、下にいるレティシアとラーニアにそう命じた。二人は、彼が艦長ではないのか? とやや怪訝そうな顔をしており、アレクシスの自尊心を少しだけ傷つけた。

 ステップを上がって艦長席にいるシャオの前に来る二人。二人は、初めてフォーマルハウトの艦長の顔を見た。第一印象では二人は若いと思ったはずだ。大佐で空母の艦長ともなれば、壮年に入っていてもおかしくないくらいのはずだが、シャオはどう見ても三十代だ。後ろ髪の一部だけを伸ばし、首の後ろで縛って流している。多少混血はあるようだが、アジア系の顔立ちだ。

 その艦長シャオ大佐は艦長席で緊張感なく、のんびりと茶をすすっている。香りから察するに、日本の緑茶だろうか。気が立っているレティシアとそうでないラーニアではシャオから受ける印象に多少の違いはあったろうが、はっきり言って威厳は感じられないフォーマルハウトの艦長に二人とも複雑な顔をしていた。

「まず、お名前をお聞きしましょうか」

 シャオは、にこやかな表情を崩さずに静かに問い掛けた。フォーマルハウト乗組員の中では最高位の幹部でありながら、彼女も敬語だった。

「第三三戦闘攻撃航宙部隊所属パイロット、レティシア・ラファラン少尉です!」

「同じく、ラーニア・ローアス大尉であります」

 二人は、シャオに向かって敬礼を施す。体の中に元気が有り余って溢れているように見えるレティシアと、落ち着いて勢いを殺しながら話すようなラーニアとははっきりとした対照を成していた。

 レティシアは、敬礼した腕を下ろすやいなや、シャオに質問を始めた。

「第三艦隊はどうなったんですか?」

「まぁまぁ、そう慌てずに。私はこの攻撃空母フォーマルハウトの艦長、シャオ・ティエンリンです。こちらは、優秀な副艦長で、アレクシス・バウアー中佐です。以後よろしく」

 アレクシスは、優秀な、という言葉を聞き、失笑にも似た笑いをもらした。

 レティシアは特に彼らの自己紹介に対して反応しない。ラーニアも、レティシアの様子を横目に確認しながらシャオの話を聞いている。

「……さて、第三艦隊はどうなったのか、ということですが……。その前に、あなたがたと第三艦隊との関係を教えてください。それからお話するかどうか決めます」

 聞いてから再び湯飲みを持ち上げて茶を一口すするシャオ。しかし、レティシアは答えない。

「艦長の質問に答えたまえ、ラファラン少尉」

 アレクシスは間髪入れずにレティシアに上官の問いには即座に答えるように促す。

「……第三艦隊は、私とローアス大尉が前に所属していた艦隊です。ドラグーンの配備とフォーマルハウトの進水に伴ってここへ転属してきました。ボレアスの防衛には第三艦隊があたっていたと通信で聞きました。以前の仲間の安否が聞きたいのです」

 苦しげな表情をしながら事情を説明するレティシア。シャオは、彼女の説明が終わってからもしばらく黙っていたが、俯き気味だった顔をあげると、

「なるほど、そうでしたか。では、聞く権利があるようですね」

 とにこやかに答える。

「艦長……」

 アレクシスは腰を折ってシャオに顔を近づける。まだその話は早いと言わんばかりの表情だ。

「中佐。言いたいことはわかりますが、聞きたいというのであれば、話して聞かせたほうが良いと思います」

 アレクシスは短く溜息をつくと、

「わかりました……」

 とシャオの顔から自分の顔を離し、再び直立の姿勢になり、レティシアとラーニアに向き直った。

 そして、シャオはレティシアの目を真正面から捉えて厳かに言った。

「はっきりとしたことが言えなくて申し訳ないのですが、第三艦隊との連絡が先の戦闘の後から途絶えていて詳細は不明です。敵艦隊を相手に劣勢にあった、ということだけは最後の通信で判っています」

 シャオの話は実に簡潔だった。これ以上話は続かない。レティシアがこれに応えて口を開くまでに少し間があった。

「……それだけ……ですか?」

 レティシアは、期待していた〝無事〟という言葉も、できれば聞きたくない〝壊滅〟や〝全滅〟といった言葉も聞けず、疑問を向ける先を完全に失ってしまった。無事なら事実を隠す必要はない。しかし、実は既に第三艦隊が壊滅的な損害を受けていたとしたら、元第三艦隊所属の自分たちを動揺させまいと隠す可能性も否定できないのではないか。当たり障りのない説明をただ淡々と伝えるシャオに、レティシアが不信感を抱いても何ら不思議はなかった。

「何故、劣勢と判っていたのに第三艦隊を救援しなかったのですか? 何故フォーマルハウトは反撃しなかったのですか? フォーマルハウトの火力と、ドラグーンがあれば、それは十分可能だったのではないですか!?」

 レティシアは、一歩前に踏み出し、拳を握り締めてシャオに詰問する。しかし、代わりにアレクシスが質問に答える。

「少尉、それは君の一方的な過大評価だな。フォーマルハウトは不沈空母ではないし、ドラグーンも無敵ではない。敵がどれだけいるのかも判らない、敵の目的が何なのかも判らない。そんな状態で、反撃に出るのはどんなに強力な兵器を持っていようとも危険な行為だからだ」

 教本に乗っている文言のような戦術家としての見解を述べるアレクシス。彼自身はこれまでの経験から、どうしてもパイロットという人種は狭い見識で軽々しく物を言いすぎる傾向があるという見解を持っていた。

「……それも、あります。しかし、我々を無事に脱出させることは第三艦隊の意志でもあったのです」

 シャオの話は事実だった。彼女も第四ドックを襲撃している敵艦載機を排除した後ボレアスを脱出したならば、第三艦隊の救援にあたることも考えに入れていた。シャオはフォーマルハウトの艦長であると同時に、独立艦隊の指令でもあり、その気になればその場の判断で行動することもできた。しかし、それを知っていた第三艦隊指令サルヴァトーレ・ピエトロ・ガリバルディ中将は、上官として、シャオから救援の提案がある前にこれを戒めて固辞し、フォーマルハウトの無傷での出航を望んだのだ。

 その耳で確かに聞いた事実ではあったものの、このシャオの物言いはアレクシスには感心できなかった。明らかに猜疑心に支配されている部下に対し、示せる証拠もない事実を話すのはかえって不信感を増させるだけだ。彼は、戦術上、戦略上の理由を強調して第三艦隊の意志については伏せるべきと考えていた。なぜなら、ここは感情で動く慈善的な組織ではなく、軍隊なのだから。そして、話の流れは彼の予想通りになっていく。

「……信じられません。失礼なようですが、この艦とドラグーンに第三艦隊が犠牲になるほどの価値があるとは思えません」

 不信感を露わにするレティシアのこの言葉に、ラーニアは驚きとともに彼女に目を向け、アレクシスは目を大きく見開いて強い口調で言い返した。

「口を慎みたまえ、少尉。君はフォーマルハウトとドラグーンを評価しているのかね、貶しているのかね。そもそも、君の価値判断などは問題ではない。艦長にとっても、これは苦渋の決断だったのだ。君は疑心暗鬼に陥っているだけなのだ」

 レティシアの言葉には一見矛盾があるようだったが、彼女の話には常に、第三艦隊の仲間の命よりも重いものはなく、それを救うためには力の出し惜しみをすべきではない、という前置きがあった。ラーニアの悲痛な表情を見る限り、アレクシスとはまた違った感想を持っており、彼女にはそれが痛いほどよく理解できているようだった。

 しばらく四人の間に沈黙が流れる。最初に口を開いたのはレティシアだった。

「……本当のことを……」

 アレクシスの言葉が耳に届いているのかいないのか、レティシアは、俯いて呟くように言うと、更に大きな声で繰り返した。

「本当のことを、教えてください!」

 しかし、シャオもアレクシスも黙して答えない。今の話がすべてであり、事実であると強調するかのように。

 レティシアにはこれが理解できないようだった。あくまでも事実を隠し続けようとする上官たちにしか見えないと思われても無理はなかった。

「レティ、もうやめなさい。私たちは軍人なのよ。あなたももう新任の少尉ではないでしょう?」

 シャオの顔をじっと見つめるレティシアの肩を押し戻すようにラーニアが説得するような口調で諭す。

 レティシアはしばらくの間、ラーニアの手の力に抵抗しながらシャオの顔を今にも涙がこぼれそうな瞳で睨み付けていた。やがて、眉ひとつ動かさずにまっすぐ彼女の視線を捉えているシャオに自分の中の不安がますます大きくなり、それに押し潰されそうになってくる。

 ラーニアは、彼女の手に逆らう力が徐々に弱くなってくるのが判ると、レティシアの肩を抱き寄せて初めてシャオに問う。

「……艦長、今の話に間違い、ありませんか……?」

 シャオはゆっくりと無言で頷く。

「そうですか……」

 ラーニアはレティシアをゆっくりと後ろに向かせると、

「それでは、失礼します。レティ、いえラファラン少尉は私が部屋に返しますので」

 と言ってからシャオとアレクシスに敬礼を施し、レティシアを抱きかかえたまま艦橋を出ていった。

 

   ◆

 

『我々は、地球圏解放軍である! 我々は、腐敗し切った統合政府を排除し、地球圏に真の平等と平和をもたらさんとするものである』

 フォーマルハウトのレーザー通信回線に飛び込んできた、この一方的な映像付きの通信は、反乱軍からの声明であった。艦内でも映像の見える場所は限られていたが、その中でも最も大きく映像を表示できる艦橋では、シャオを始めとする艦橋要員がメインモニターに映る人物の顔を見上げていた。最初は艦橋だけでしかこの通信を視聴することができなかったが、シャオの判断で生の通信より数分ほど遅れて録画が艦内放送の回線に流された。全艦の乗組員は、なんの前触れもなく始まったこの声明に仕事の手を休めて耳を傾けた。

 モニターに映っていた声の主はGUSF大将アドニス・マクウィルソン提督。GUSF内でも穏健派で知られる仁将がなぜ反乱を引き起こしたのか。誰もが驚きの色を隠せなかった。いつもは緊張感のない顔のシャオもこの時ばかりは険しい表情でマクウィルソンの声明に耳を傾けていた。

『我々は既に地球の護りの要であるボレアスを占拠した。GUSFの五個艦隊が我々の同胞となっている。我々は、その気になれば月面上と地球上の主要な都市すべてを焦土と化すだけの火力を有している。抵抗は無益な血を流すだけだ。我々に賛同していないGUSF将兵諸君は即刻武装を解除し、投降せよ。抵抗する者は容赦なく排除する』

 このように始まった演説は、その後十数分に及び、以下のような要求がなされていた。

 第一に、現統合政府を解体し、地球圏全人類による総選挙に基づく新政府の樹立。第二に、現統合政府議長であるダグラス・バージル・マイヤー及び数十名に及ぶ政府高官、並びにGUSF元帥バイロン・ランダル・コンラッドの身柄の引渡し。そして、フォーマルハウトの乗組員を最も驚かせたのは、第三の要求、地球圏からの全OMDの排除、というものである。

 OMDは今から約三十年前にアリスティード・キュヴィエ博士によって初めて造られ、現在では地球人類の一員としての地位を確立しつつある。確かに、これまでにOMDに関しては倫理的な問題があるとして何度も激しい議論が繰り返されてきたが、西アジア内乱をはじめとする反乱や事件の要求の中にOMDの排除を示した例はない。

 また、今回のマクウィルソン提督からの演説の中に、OMDを排除するという一見新政府樹立とはまったく関係のなさそうな要求に関して明確な理由が示されなかったこともフォーマルハウト乗組員に限らず、地球圏全人類に疑問を沸き起こさせた。

『なお、我々は政府に七日間の猶予を与える。もし、これらの要求にひとつでも応じなかった場合には、実力行使に移る。統合政府には賢明な判断を要求するものである』

 マクウィルソン提督の演説は、このように締めくくられた。終始泰然自若とした提督の様子は、強い決意を感じさせるものがあったが、多くの疑問を残していた。

「……それだけか? たったそれだけのことで、それだけの大反乱を起こせるものなのか? まったくビジョンの感じられない演説だ」

 アレクシスは最近やや老眼が気になりだした目を細め、唸るように呟いた。アドニス・マクウィルソンといえば、演説の名手としてGUSFの中でもその名を知られ、彼の演説によって兵士たちは士気を鼓舞され、また様々な論争を終結に導いたことはアレクシスもよく知っていた。

「我々を納得させる必要などない、ということか……?」

 

 ドラグーン格納庫に甲高い金属音が響いた。整備兵の何人かがその音の方に振り向く。

 今、レンチ様の工具を取り落とした女性はひどく甲高い音が格納庫中に響きわたったにも関わらず、その工具を拾おうともせず、そのまま微動だにせず呆然と立ちつくしていた。

「どうしたの?」

 彼女の前を通りかかった一本お下げの女性に声をかけられて初めて彼女は我に返った。一本お下げの女性は床に落ちた工具を拾って先ほどまで呆然としていた女性に手渡す。一本お下げの女性は自分よりも頭半分ほども高い相手の顔を見て少し驚いたような顔をする。

「あれ。あんたあたしと同じ小隊の……」

「はい……。第三小隊のルフィです。ヴァネッサ・アヴリル少尉」

 ルフィと名乗った女性は笑みを浮かべた。しかし、その笑みは明らかに作り笑いと誰が見ても判るものだった。

 そして、ヴァネッサはその目を疑う光景を目の当たりにした。ルフィは俯いたかと思うと、両手をだらりと力なく下げたまま、その場に両膝をついて見せたのだった。ヴァネッサには、その姿勢がまるで首を刎ね易いように差し出しているかのように見えた。彼女は慌ててルフィの腕を掴み、立ち上がらせようと引っ張り上げた。

「ちょっ、ちょっとやめなって! そんな罪人みたいな格好!」

「目上の人を見下ろしてはいけないと、習いましたので……」

 顔を上げるルフィの憂いを湛えた瞳を見たヴァネッサは、それならば人類の中で最も背が低い人物が最下層の人間ということになるではないか、と憤った。

 仮に目上の者を見下ろしてはいけないという儀礼が正しいとして、なぜOMDの身長をわざわざ高くするのか理解に苦しんだ。ファッション・モデルのように長身のほうが美しく見えるからではないのか。それとも、最初から膝を折らせることを前提とし、所有者の決して品性優良とは言えない優越感を満足することを目的としているのか。「とにかく立ちなよ! あんたもドラグーンのパイロットだろ。上も下もないじゃないか」

 ルフィは暗い表情はそのまま立ち上がり、口を開いた。

「……ありがとうございます」

「……最初の話に戻るけど、さっき深刻そうな顔をしてたけど……。どうしたの? もしよければ話してくれないかな。なんか普通じゃなさそうだったから」

 ルフィはヴァネッサに応じて話をして良いものかどうか考えているようだった。また先ほどの暗い表情に戻っている。ヴァネッサはそのままルフィの次の言葉を待った。このままルフィがこの場を離れたり、別れを告げて去ろうとすればこれ以上は追求しないつもりだった。

「さっきの放送……。反乱軍の声明、聞きましたか……?」

「え? ああ、聞いたけど、通り一遍の声明だったね。変わっていたところと言えばOMDがどうとか……」

 ヴァネッサがOMDという言葉を口にしたところで、ルフィは親に拳を振り上げられた子供のようにきつく目をつぶった。ヴァネッサは自分の迂闊さを呪った。たった今、ルフィを自分と対等だと言ったばかりではなかったか、と。

 ルフィはキュヴィエ・バイオケミカル社の最新型軍事用OMDであり、実験的にドラグーンのパイロットとしてフォーマルハウトに乗艦している。しかし、先ほどの演説を聞く限りでは第三の要求であるOMD排除の例外ではない。

「……私……殺されてしまうんですか……」

 俯いてぽろぽろと涙をこぼすルフィ。ヴァネッサは、その肩に両手を回す。すると、ルフィはヴァネッサの胸にしがみついて嗚咽し始めた。

「大丈夫……。あたしがそんなことさせるもんか。涙だって流せるあんたを人間と言わずになんだって言うんだ……」

 ヴァネッサは両腕に力を入れてルフィを抱きしめた。

「仁将だかなんだか知らないけど、ルフィたちは自動車やおもちゃなんかとはわけが違うんだ。簡単にあいつらの勝手な都合で殺されてたまるものか。誰にだって理由なく〝人〟の生き死にを自由に決めることなんかできないんだ……!」

 ルフィの持っていた工具はバラバラと足元に落ち、格納庫に悲しげな金属音を響かせた。既にルフィがOMDだということを知っていた整備兵たちは手を休め、その様子をドラグーンの上から悲痛な眼差しで見つめていた。

 

 同じ頃、ベルンハルトたちは、ちょうど昼食を摂るために艦内の士官用食堂へ来ていた。本来なら、士官であるベルンハルトは居室にいながらにして食事を兵卒に運ばせることもできるのだが、彼は食堂で中隊の仲間と食事をすることを好んでいた。

 彼らは食堂の天井近くに取り付けられているモニターを通してマクウィルソン提督の演説に聞き入っていたが、演説が終わっても、しばらく言葉がなかった。

「五個艦隊、だって? 信じられないな。GUSFの宇宙戦力の半分以上じゃないか。よくあんな演説で五個艦隊も動いたな」

 モニターを見ていて先ほどまで手を休めていた食事を再開しながらベルンハルトは誰ともなく呟く。既に料理は冷め、味などもうどうでもよくなっている。

「統合政府だってこんな要求納得しないわよ。これじゃ、最初から七日の後に戦闘を開始しますって言ってるのと同じじゃない。それにあの三番目の要求って何? 統合政府の解体とOMDがどう関係があるって言うのよ?」

 テーブルを挟んでベルンハルトの対面にて同じように食事を摂っているミュリエルも手に持ったスプーンを上下に振りながらベルンハルトの意見に同意する。

 一人、会話に混じらずに神妙な顔つきでテーブルの上を見つめているマーリオンに気が付き、ベルンハルトが話し掛ける。

「隊長、どうかしましたか? 顔色があまり良くないようですが……」

「え? い、いえ、なんでもないです。そ、それじゃお先に……」

 マーリオンは青い顔をしてそそくさと席を立ち、まだ半分以上も食事の残っている食器が乗ったトレーを持って行ってしまった。

「隊長、どうしたのかしら? 演説自体はそんなにショッキングな内容でもなかったと思うけど」

 ミュリエルは、マーリオンの背中が食堂から見えなくなってから呟いた。

「よく考えろよ。俺たちはこれから三個艦隊プラスこのフォーマルハウトだけで五個艦隊を相手にしないといけないんだぞ。第三艦隊もどうなったか判らないし、実質二個艦隊だな。そりゃ気分も悪くなる」

 冷めて不味くなった食事をこれ以上食べる気も失せたのか、ベルンハルトは手に持ったフォークをトレーの中へ投げ込み、頭の後ろに腕を組んだ。

「他人事みたいに言うわねぇ。ヴェルナーも実際に彼らを相手にするんでしょう?」

「ん、まぁ、そうなんだけどもさ……」

 その後、三人の会話は徐々に口数が少なくなっていった。二個艦隊で五個艦隊を相手に勝てるのか。自分たちは本当に生きて帰れるのか、突如大きなプレッシャーが彼らの上にのしかかっていた。

「また……、人が傷つくんでしょうか……」

 ベルンハルトの隣りに座っているリリアのぼそりと言った言葉に一同声もなくなる。

 誰からともなく席から立ちあがるベルンハルトたちの耳にけたたましい警報が突き刺さった。

『第六艦隊所属の艦載機多数、急速接近中! 艦載機全機、出撃準備!』

「なに!? 攻撃は七日後じゃなかったのか!? 自分で言ったことを早々に破るかよ!」

「知らないわよ! とにかく敵は来たのよ!」

 三人は持ち上げかけたトレーをテーブルに放り出すと、ドラグーン格納庫へ急いだ。

 

「敵は十二機よ。応援が来るまでフォーマルハウトに近づけるな!」

 直掩に上がっていたラーニア率いるドラグーン第二小隊は、フォーマルハウトに襲いかかる敵機に対して攻撃を開始した。敵機はハンターである。

 直掩哨戒中だったラーニアはマクウィルソン大将の演説を聞いていない。しかし、おそらく彼女もアレクシスやベルンハルトと同じ感想を抱いたに違いない。むしろ、これから敵と戦闘を開始しようとしている彼女ら、特にレティシアには聞かせない方が良かったものなのかも知れない。

 ラーニアはモニターに写っているレティシアの表情に何気なく目をやるが、ひとまず落ち着いているようなので安心した。

 やがて、ドラグーンのレーダーが敵機を捉える。

「ラファラン少尉! ローゼフ少尉! 敵を撹乱して、できるだけ時間を稼ぐのよ!」

 ラーニアは積極的に仕掛けずに、できるだけ敵をここに足止めしつつ応援を待つことにした。散開を指示し、ラーニアは正面から、レティシアとユーリイ・ローゼフ少尉にはそれぞれ左右から迂回させて敵機の進行の妨害を試みる。白い帯を引いて三機のドラグーンは急激に加速していく。

 間もなく第二小隊の三機はハンター部隊と接触する。彼女らのドラグーンに突っ込まれ、大きく隊列を乱す敵ハンター部隊。すれ違いざまにMARIONシステムが撮影したスチル画像には何機かが翼の下に対艦ミサイルを抱えているのを捉えていた。

 レティシアは、反応の遅れたハンターめがけて躊躇なくトリガーを引く。放たれたレーザーはエンジンに直撃し、ハンターは木っ端微塵に吹き飛ぶ。残りは十一機。ユーリイも既に一機を撃墜できる位置を占めていた。

『なんて奴らだ! 化け物か!?』

『ひるむな! 相手はたった三機だ! 囲んで追い詰めろ!』

 敵ハンター部隊は、フォーマルハウトへのミサイル攻撃を中止し、ドラグーンが三機しかいないことを確認すると体勢を立て直し、ドッグファイトに持ち込んできた。しかし、もともとの機体の性能に格段の差がある機体同士の戦闘では、結果は非を見るより明らかであった。まさに横綱相撲と言って良い。

 第二小隊の各機が敵を二機ずつ仕留めたところで、ラーニアは異変に気が付いた。レティシアの機体が徐々に戦闘宙域から離れていっているのである。ラーニアのコックピットのモニターには、レティシアのドラグーンの加速度が急速に上昇し、これからますます加速していくことを告げている。

「レティ! どこへ行くの?! 戻りなさい!」

 しかし、ラーニアの制止も聞かず、レティシアのドラグーンは第二小隊からどんどん離れて行く。ドラグーンのエンジンが持つ推力があればハンターを振り切ることは造作もないことだったが、ラーニアとユーリイは敵をフォーマルハウトに近づけさせないように妨害し続けなければならないため、その場を迂闊に離れることができない。

「応援はどうしたの!? このままではレティが……!」

 レティシアはドラグーンのスロットルを全開にし、左手のスロットルを握る力を一向に緩めようとしない。

「誰も教えてくれないなら、直接あいつら反乱軍に聞いてやる……!」

 

「な、何をやっているんだ……!」

 アレクシスは、突然突進を始めたレティシアの機体を見て怒鳴った。彼女の機体に搭載されたMARIONシステムからは、急激な加速を示す数値がひっきりなしに送られてきている。さらに、フォーマルハウトのレーダーは、ラーニアたちのいる右舷からやってくる第二波の機影を捉えていた。

「艦長! だからあれほど第三艦隊の状況については彼らに話すなと……!」

 アレクシスは、艦長席に座っているシャオを振り返ってシャオの判断ミスを責める。しかし、シャオはこれといって慌てた様子もなく、悠然と茶をすすりながら言い放つ。

「元気があっていいじゃないですか。このくらいでないと、この先、生き残れませんよ」

「今やられてしまったら、元も子もないじゃないですか!」

 アレクシスは思わず目を片手で覆い、天を仰ぐ。

 シャオはアレクシスの抗議に耳を貸さず、眼下の通信オペレータに指示を出す。

「コンウェイ上級軍曹、ボルン少佐に残りの三個小隊はできるだけフォーマルハウトを離れないように伝えてください」

「はい。しかし、ローアス大尉から再度応援の要請が来ていますが?」

 管制担当通信士のシルビア・コンウェイ上級軍曹は椅子をシャオのほうに向けつつ振り返り、怪訝な顔をしてシャオを見上げた。

「右舷の敵にはハンター中隊をあたらせてください」

「了解しました。ボルン少佐、応答願います。こちらフォーマルハウト・コントロール……」

 

『こちら第三ハンター小隊のシュタイナーだ。遅くなってすまない!』

 ラーニアがハンターをフォーマルハウトへ向かわせないように妨害をしつつ、レティシアのドラグーンを追いかける機会を窺っていたところ、とっくにレティシアの機体が見えなくなってから応援のハンター中隊から通信が入った。

「シュタイナー大尉! ラファラン少尉が独断で吶喊。これから私とローゼフ少尉で追いかけます。援護をお願いします!」

『なんだと!? 了解、大至急援護に向かう! 死に急ぎやがって!』

「ローゼフ少尉! 応援が到着したら、全速力で敵機を振り切ってラファラン少尉の掩護にあたる!」

『了解』

 ラーニアの乗る機体のコックピットには、無機質な返事が返ってきた。敵を前にしても余裕があるのか、それとももともと物怖じしない性格なのか、単にその恐怖で声が出なくなっているだけなのか、ラーニアはこのユーリイ・ローゼフというパイロットの人柄を掴みかねていた。

 ラーニアとユーリイの機体が第一波を振り切って急加速を開始した頃には、レティシアの機体は敵編隊第二波と接敵していた。さすがに敵もまっすぐこちらに向かってくるとは思っていなかったのか、やや編隊が崩れたように見えた。

 レティシアは、目の前にいた反応の遅れたハンターをすれ違いざまに撃墜する。さらに急旋回し、第二波をやり過ごそうとする。急激なGによってレティシアの奥歯がギリギリと音を立てる。ハンターのパイロットたちはそれを目で追うことしかできない。彼女の目標はハンターなどではない。ドラグーンのレーダーには、敵編隊の後方はるか彼方には第六艦隊と思われる艦影がひとつ見えていた。

 第六艦隊所属の艦載機編隊は、レティシアの突然の突撃で、編隊を崩す。しかし、とにかく第六艦隊に向かおうと、何の考えもなく突進してくるだけのレティシアは、次第にハンターの機動力と数に利を得た敵の術中にはまり、各所に軽微なダメージを受け始めた。

『レティ! 退がりなさい! あなたのしていることは命令に違反しているのよ!』

 ラーニアの必死の説得にも、レティシアは耳を貸さなかった。荒い息をしながら、ただひたすらにモニターに映る敵艦と思しき影を凝視し続ける。しかし、ハンターはなかなかレティシアを放してはくれない。彼女は敵をかわしながらとりつかれたように独り言を呟いた。

「邪魔をするな……! 第三艦隊はどこだ……!」

 レティシアの脳裏には第三艦隊の仲間たちの顔が去来していた。西アジア内乱で生死を共にした戦友たちの顔は、確かに辛いこともあったはずなのに、みんな笑った顔をしているのがレティシアの悲しみをいっそう誘う。

 

「なんだって!? 敵は目の前だぞ! フォーマルハウトの近くにいろって!?」

 既にフォーマルハウトから発艦したベルンハルトはフォーマルハウトからの指示を聞いて素っ頓狂な声をあげた。

『艦長の指示です。私たちはフォーマルハウト付近で展開します。第一小隊は、フォーマルハウトのセンサー有効範囲のギリギリまで進出して索敵にあたります。アイスナー少尉、いいですね?』

 マーリオンを始めとする、ドラグーン中隊残り三個小隊は、フォーマルハウトを取り囲むように展開する。第二小隊の応戦を尻目に、第一小隊はまったくの虚空へとさまよい出す。

「敵なんてどこにもいないぞ!」

『いえ! レーダーに敵編隊補足! 二十……。いえ、二十四機です! 第六艦隊もいます!』

 偵察哨戒用装備である003装備で出撃しているリリアからの報告で、一斉にレーダーに目をやる中隊パイロット。敵もECMを全開にしているため、ほとんど機影が見えない。確かにかなりの数がいることはわかるが、正確に二十四機いるかどうかなどわかるはずもない。

 しかし、数瞬後には彼女の言葉が正しいことを知ることになる。

 マーリオンは、リリアの報告の後、即座に各機に迎撃を命じ、敵機との接触に備えさせる。

「敵機種判明しました。ハンター十五機、長距離支援型アルバレスト九機です」

 続けてリリアより敵編隊の構成が報告される。全員のモニターにハンターとアルバレストの情報が表示され、同時に精巧に作られた立体CGが視覚的に敵の姿を伝える。

 ここで出現したアルバレストは対艦攻撃能力に乏しいハンターの代わりに、攻撃任務を主に行う攻撃機である。主兵装は機体下部に装備された大口径リニア・キャノン一門、対艦ミサイル四発である。自衛用にアサルト・レーザーを一門装備してはいるが、対空戦闘能力はあまり高くない。

「第一、第四小隊は敵機の迎撃、第三小隊はそのまま敵艦隊へ突撃してください」

『了解ですわ少佐。対艦攻撃先陣ならこの第三小隊にお任せください』

 通信から帰ってきた復唱は第三小隊長サクラ・ウヅキ大尉からのものだ。モニターには自信満々のサクラの顔が写っている。今回、第三小隊は対艦装備である010装備で出撃している。最初から対艦戦闘になることを見越した装備選択である。

 ベルンハルトは正面に肉眼で視認できるほど接近してきたハンターと長距離支援型戦闘攻撃機アルバレストの混成編隊を見つけて叫んだ。

「来た……!」

 ベルンハルトの鼓動は一気に速く、強く刻みだした。

 

「ほう……。我々の陽動に気付くとは……。敵艦の艦長はかなりギャンブル好きのようだな。マクウィルソン提督はフォーマルハウトの艦長をご存知なのでしょう?」

 ラーニアたち第二小隊が応戦している右舷とはまったく違う方向にマーリオンたちドラグーン三個小隊が展開していくのを戦術偵察機からの情報で知ったアークツルスの艦長、イブラヒム・ゼベルマウィ大佐は、提督席に座っているマクウィルソンを振り返る。アークツルスは陽動作戦用の編隊を送り出すために第六艦隊の本隊から離れ、第二小隊が応戦しているフォーマルハウト右舷にいる。

「ああ……。シャオ大佐は私の教え子だからな……。しかし、まだまだ甘いよ……」

 マクウィルソンがそう答えた直後、センサー手から大声で報告があがる。

「敵艦載機一機、こちらへ突進してきます!」

「対空迎撃戦闘用意。バルクハウゼン大尉に連絡を」

「了解! 対空迎撃戦闘用意!」

 通信手が復唱したその時、アークツルスの艦体に振動が走った。レティシアのドラグーンから放たれたリニア・キャノンの砲撃が艦首付近に命中したのだ。

「敵艦載機からの長距離射撃です! 第一ブロックに破口があったようですが、戦闘能力に支障なし!」

 レティシアのドラグーンはアークツルスの上方を右舷から左舷に向かって猛烈なスピードで通過していく。それはマクウィルソンの目にも映った。レティシアは急旋回して再度攻撃を試みる。彼女の機体に向かって対空砲火が始まっているが、それらはドラグーンには掠りもしない。レティシアは、艦橋のある中央後方寄りのブロックを外すようにしてアークツルスに照準を合わせた。

 GUSFの艦艇は艦橋が艦体深くにあるため、現代の艦艇のように艦橋が突き出ていて高い位置にあったりはしない。海面が常に下にある水上艦艇と違い、敵がどこから来るかはその時になってみなければわからないため、従来の艦橋の配置は意味をなさない。そのため、敵がどこから来ても捉えることができるように、艦外の様子は窓ではなく各所の取り付けられた無数のカメラを通して見るようになっている。

 

 レティシアがトリガーを引き絞ろうとしたその時、MARIONシステムから警報が入った。

「上方ニ敵艦載機! ロックオンサレテイマス! 直チニ回避シテクダサイ!」

 レティシアは回避など毛頭するつもりはなかったが、直後に目の前をアサルト・レーザーの光が通過していくのが見えると、舌打ちをしてやむを得ず回避機動をとる。アークツルスへの攻撃コースを外れたドラグーンのモニターに艦載機の姿が映る。レティシアは目を大きく見開く。

「……赤い機体……!」

 

 マーリオン率いる三個小隊は、敵艦載機編隊を打ち破り、敵艦隊への対艦攻撃に移っていた。

「ははっ! 第六艦隊ってこんなもの? 案外もろいんだな!」

 第三小隊のヴァネッサ・アヴリル少尉は既に第六艦隊所属艦艇に幾度となく010装備の主力兵装であるロング・アサルト・レーザーの洗礼を浴びせ掛けていた。

 彼女の操縦は力強いと言うよりも滑るように華麗な機動を見せる。必要最小限に姿勢制御スラスターを噴射して対空砲火の間を決して減速することなく縫うようにして敵艦に接近していく。彼女は既に、第六艦隊所属駆逐艦ルクバトを撃沈している。

「油断はいけませんわ、アヴリル少尉。まだ敵は戦えますのよ!」

「わかってる!」

 ヴァネッサは圧倒的に敵を押しているものの、緊張した声で返事をする。サクラに言われるまでもないことであったし、彼女とて決して敵を甘く見ているわけではない。先ほどの発言も、あまりに簡単に敵艦が沈んでしまったことに対する、自分の驚きを裏返した言葉でもあった。

 対艦攻撃はドラグーンのような優秀な機体をもってしても危険な攻撃である。それでもしかし、敵の攻撃に当たるような気がしないのは不思議なことだ。

「ルフィ! この馬鹿どもにきつい一発をお見舞いしてやれ!」

『は、はい!』

 ルフィの機体には特別な装備が施されており、操縦席のヘッドレストと背もたれの間の、ちょうど首があたる部分から無数のケーブルが延びている。ケーブルはルフィのうなじにあるコネクタに接続されており、彼女はそれを通じてドラグーンを操縦する。まさにルフィの思い描いたとおりにドラグーンは飛翔するのである。機体外部に取り付けられた各種センサーやカメラの情報は直接ルフィの脳に送り込まれ、彼女は首を巡らさずとも機体全周の様子を見ることができ、目をつぶったままでさえも操縦できる。彼女の左右の手は操縦桿とスロットルに添えられており、これで操縦することも可能であるが、どちらかと言えばこれらはシステムに異常があった場合の非常用である。こういった仕様であるため、ルフィの機体に搭載されているMARIONシステムは普段は言葉を話さない。

 ルフィの機体は、常人には耐えられないような機動をとりながら敵艦に接近する。人間の何倍もの耐久力を持つOMDならではの芸当である。彼女は、敵艦の向こう側を見るような遠い目をしたままトリガーを引く。ロング・アサルト・レーザーは敵艦エレクトラ級防空巡洋艦アトラスの艦尾から艦首の方向に薙ぎ払うように命中する。アトラスはレーザーで焼き切られた場所から爆発を起こし、まばゆいばかりの光を放つ火球に包まれて轟沈した。

 それを見ていたヴァネッサは口笛を鳴らし、感嘆の表情を見せたが、すぐに前に真顔になって向き直り、操縦桿を握りなおす。

(平和だか平等だか知らないけど、謂われもないことで死刑を宣告されたも同然のルフィの気持ちを思い知れ!)

 ヴァネッサは本来なら味方の艦隊であるはずの第六艦隊に、もはや哀れみを感じることはなかった。

 

 再びアークツルス。ラーニアとユーリイがようやくレティシアに追いついこうとした時、レティシアの機体に非常事態が起きていた。

『な、なんだこいつ……! かわし切れない!』

 通信から聞こえるレティシアの言葉は焦りの色に彩られていた。まるで亡霊でも見たかのような口ぶりだ。ラーニアがモニターに目をやると、そこに写るレティシアの表情は焦りと、恐怖に支配されている。

「どうしたの!? レティ!」

 ラーニアがキャノピーのモニターを通じて再びレティシアの機体を視界に収めた時には、ちょうどバルクハウゼンのナイトブレードがレティシアのドラグーンの上方に占位し、今まさに必殺の一撃を加えようとしているところだった。

 バルクハウゼンは、勝ち誇りながらも失望に彩られた独り言を呟く。

「いくら機体が優秀でもパイロットがこれではな……」

「MARION! コード013! レティシアのドラグーンにリモート・アクセスしてエンジンをパージ!! 急いで!!」

 ラーニアがそう叫んだとほぼ同じ時にバルクハウゼンは、今度こそ、なんの躊躇もなくトリガーを引いた。

『了解。コード013承認。ドラグーン五号機、メイン・エンジン強制パージシマス』

『きゃぁあああああ!』

 ラーニアの指示に対するMARIONシステムの返事と、通信を通じたレティシアの悲鳴が重なる。

 バルクハウゼンの放ったアサルト・レーザーは、レティシアのドラグーンの右翼に直撃し、ミサイル・コンテナを貫通、誘爆する。しかし、一瞬メイン・エンジンの切り離しが早かったため、核融合炉の誘爆だけは避けられた。

 なお、MARIONシステムからの復唱があったためにパージが遅れる、ということはない。コード013は非常事態用のコードであり、その実行を命じた場合は、すべての処理に割り込んでそれを実行するように設計されている。この際、どのように非常事態に応じるかはMARIONシステムが瞬時に多数決を行って判断する。したがって、このラーニアの指示はほとんどMARIONシステムには伝わっていないことになる。実際には、ラーニアの指示はこの後のMARIONシステムの判断基準の補正に利用される。この場合はたまたまラーニアとMARIONシステムの判断が一致していたと解釈され、後の判断のためにフィードバックされる。

「またしても……。しかし! 帰る所をなくせば同じこと!」

 バルクハウゼンは前回のように帰投を命じない。応援に出撃してきているフォーマルハウト所属のハンターの相手をルクレールと他の部下に任せ、自分はフォーマルハウトへ突進する。エンジンと右翼を失ったレティシアはもちろん、ラーニアとユーリイは一瞬の出来事に対応が遅れ、赤い機体を取り逃がしてしまう。

 しかし、おそらく気絶しているであろうレティシアを置いて赤い機体を追うことはできない。敵はそれだけではない。レティシアをこの場に残していけば、次こそ確実に撃墜されてしまう。ラーニアはフォーマルハウトのほうを振り返ることしかできなかった。たった一機ではフォーマルハウトをどうこうできるものではないというのは経験が告げていたが、ラーニアの直感はそうは言っていなかった。

「艦長! 一機こちらへ向かってきます! 接触まで百二十秒!」

 バルクハウゼンの赤い機体の動きに気が付いたハミルトン大尉が叫ぶ。

 赤い機体は、ドラグーン第二小隊を振り切り、マクシミリアンやシュタイナーたちハンター中隊をやすやすとかわし、若干の弧を描くようにしてフォーマルハウトに突撃してくる。フォーマルハウトから赤い機体が目視できるようになった時には、フォーマルハウトとの間には母艦を守る艦載機は一機もいなかった。

「対空砲、右舷の敵機へ集中砲火! 対空ミサイルはどうした!」

「やってます!」

 アレクシスの怒声が響く中、兵装管制士官のエルンスト・テオドール・シュヴァルツ大尉と兵装技術員のディエゴ・クルス先任曹長は対空砲の制御と、対空ミサイルのプログラム選択に追われる。

 フォーマルハウトの必死の防戦にもひるむことなく、ますます速度を上げて突進してくる赤い機体。

 バルクハウゼンは自分の機体に集中してくる対空砲火の火線を見つめていた。至近弾を食らって機体が揺れる度に体は緊張し、背中にはじっとりとした汗を感じる。しかし、彼はナイトブレードの機首を返すようなことはない。

「四……、三……、二……、一……、敵機本艦に接触!」

 ハミルトンの報告の瞬間、フォーマルハウトを軽い振動が襲った。ナイトブレードの放ったリニア・キャノンが命中したのである。

「右舷三番カタパルトに被弾! 三番カタパルトブロック閉鎖、エアロック開放急速減圧!」

 閉鎖したブロックを減圧するのは、空気を放出して火災が発生した時に他のブロックに火災が及ばないようにするための処置で、旧来からの水上艦艇が行う注水とほぼ同じ行為である。ただ、水上艦艇の注水と異なるのは、宇宙空間であるため浸水による艦の傾斜がなく、そのバランスをとる意味合いはない点である。

「敵機、反転します!」

 再び艦橋に小さな振動が走る。

「左舷一番カタパルトに被弾! 使用不能!」

(マクウィルソン提督お得意の〝隠し玉〟ですね……。陽動部隊でありながら、強力な隠し玉を持たせて陽動を読まれた場合の攻撃の主体を行う部隊でもある……。しかし、艦隊に仕掛けたのは僅かにこっちが先……!)

 艦長であるシャオは、特に何の指示も出さず、真一文字に口を結んだまま、時間との勝負に賭けていた。確かに、マクウィルソンは自分の師であり、ある程度お互いの手の内は読めてはいる。しかし、だからこそ一瞬でも先に攻撃を開始できたほうが僅かに分がある。シャオのフォーマルハウトはたった一隻、マクウィルソンの第六艦隊は八隻。ドラグーンが獅子奮迅の働きをしたとしても五分未満といったところだ。ドラグーンの戦闘能力には未知数の部分が多かったし、これはもはや賭け以外の何物でもなかった。

「ドラグーン中隊を呼び戻せ!」

「駄目です。ドラグーン中隊には、任務を遂行するように伝えてください」

 シャオは迫り来る赤い機体に対しては別段特別な指示を出さないが、ドラグーン中隊を呼び戻すように指示しようとするアレクシスにはきっちりと異を唱える。

「しかし艦長!」

 血相を変えてシャオに抗議するアレクシスだが、シャオは微笑をたたえてこう言い放つ。

「ドラグーン中隊が戻ってくる頃にはこの艦は沈んでますよ……」

 

「ばかな……! 私は悪夢を見ているのか……? 二十四機だぞ……! 二十四機の艦載機をたった十機で瞬く間に全滅させられるなんて……!」

 第六艦隊別働隊の指揮を任されていたプロキオン級軽空母一番艦プロキオンの艦長は愕然とした表情で、目の前で自分の艦隊を蹂躙する蒼い龍たちを見つめていた。迎撃に出た第六艦隊別働隊の艦載機は既に全滅し、合流したマーリオンをはじめとする第一、第三、第四小隊の全機で第六艦隊に攻撃を開始している。対空砲火や対空ミサイルはものの役に立ってはいない。

 第六艦隊旗艦アークツルスでは、偵察機からの情報と通信で別働隊の大苦戦を報らされた。肉眼でも時折別働隊がいる方向から小さな閃光が見える。

「アトラスに続いて、アル・ミサム轟沈!」

 アル・ミサムはアル・アディド型駆逐艦である。ヴァネッサに撃沈されたルクバトも、ルフィに撃沈されたアトラスもそうだったが、三隻ともほとんどまともに反撃もできないままに撃沈されている。ちなみに、アル・ミサムはサクラのスコアである。

「ワズン大破! 戦闘続行不能です! ゾズマから撤退の要請が来ています!」

 通信手の報告は悲痛を通り越して悲鳴となりつつある。旗艦であるアークツルスは第六艦隊の主力とは反対の位置にいたため、レティシアの一撃を除いてほとんど損傷はなかったが、主力の損害は目に余るものがあった。

「提督! このままでは別働隊は全滅です。撤退命令を!」

 ゼベルマウィの嘆願に応じ、マクウィルソンは深く溜息をつくと、ゆっくりと手を上げ、撤退命令を下した。

(ドラグーンの力、よもやここまでとは……。試作機のテストで五隻の標的艦を沈めたというのはどうやら嘘ではないらしいな……)

 マクウィルソンはゼベルマウィが別働隊に撤退命令を伝え始めたのを確認すると、手を下ろし、本来ならば艦長席である提督席の背もたれに背中を預けた。

(少し、〝あの件〟について考え直さなければならないようだな……)

 

「なに……? 艦隊が壊走……!?」

 あと一歩というところまでフォーマルハウトを追い詰めていたバルクハウゼンだったが、アークツルスからの撤退命令を聞くと、小さく舌打ちをしながらも即座に攻撃を中止し、フォーマルハウトから離脱する。一緒に艦隊を出撃したハンター部隊は半数に減っていた。

『申し訳ありません、大尉……。一度ならず二度までも……!』

 ルクレールからの通信の声には、無念さが色濃く滲み出ていた。相手はラーニアとユーリイのたった二機であったにも関わらず、ドラグーンを撃墜するどころか、彼らは誰一人としてバルクハウゼンの援護にまわれなかった。隙を見て戦闘宙域から飛び出そうとした者もいたが、ことごとくドラグーンに追いつかれた。無防備な背中を晒していたそれらの機体は敢えなく撃墜されていった。彼らは、まるで蛇に睨まれた蛙のように、前はもとより後ろにも目がついているのではないかとさえ思えるドラグーンから離れることができなくなってしまったのだった。

「悔やむな、ルクレール。彼らはよくやった。胸を張れ」

『大尉。あれは……。あれは、航宙機なんかじゃありません……』

 筆舌に尽くしがたい恐怖の光景を思い出すかのように震えているルクレールの声。

『蒼い航宙機の形をした悪魔です……』

 彼女は、自分が生き残れたのはただの偶然のようにしか思えない。バルクハウゼンが行動不能にしたレティシアのドラグーンが健在だったらと思うと生きた心地がしない。バルクハウゼンは、そんなルクレールを哀れに思いつつ目を細めて彼女の言葉を聞いていたが、何も返事はせずに黙っていた。

「それで、マクウィルソン提督はご無事なのか?」

 バルクハウゼンは帰路において母艦にマクウィルソンの安否を聞く。今の自分があるのはマクウィルソンのお陰と言って過言ではない。今マクウィルソンに死なれてしまったら、何も終わらせることなく終わってしまうことになる。

「無事なんだな? ……そうか。ならばいくらでも建て直しができるというものだ……」

 

「い、行ったか……」

 アレクシスはレーダーを見て赤い機体が確かにフォーマルハウトから離れていっているのを確認すると、その場で肩の力を抜き、だらりと手を下ろす。しかし、仕事はそこで終わったわけではない。

「各部被害状況を報告してください。艦載機帰還ハッチに異常ありませんね? 艦載機が帰ってくる玄関がないんじゃどうしようもないですからね」

 シャオは、シルビアが状況確認で忙しいため、そう言いながら自分で茶を淹れようと立ち上がったところだった。さすがに戦闘中はどんなことがあっても艦長席を立つことはできない。かといって、戦闘が終わるなり艦長職にある者が自分で自分の茶を淹れている情けない姿を見ると、アレクシスの疲労感は一挙に倍になるのだ。

「着艦甲板、応答願います。ラファラン少尉の機体が損傷を受けているようなので、優先的に着艦させてください」

『了解』

 シルビアが甲板士官と連絡を取り、艦載機の収容の段取りをつけている間、シャオとアレクシスは少しだけ暇になる。

「しかし艦長、自分で七日と期限を切っておきながらいきなり攻撃してくるというのは……」

「中佐、その話はまた後でしましょう。しばらく艦橋をお願いします」

 シャオはアレクシスの投げかけた疑問を最後まで聞かずに艦長席を立つ。

「艦長! どちらへ!?」

 既に艦橋の出入口に向かい始めているシャオに振り向きつつ問うアレクシスに対し、彼女は、

「お転婆少尉の様子を見に行ってきます」

 と一言残して艦橋を出ていってしまった。

 シャオの姿が艦橋の出入口のドアが閉まって見えなくなると、アレクシスはこれ以上ないほどに深い溜息をつくのだった。しかし、口ではああは言っていたものの、レティシアの機体が中破されて帰ってきたことに関しては多少は責任を感じているようだ、ということにアレクシスは少しだけ安心するのだった。

 

「レティ! レティシア・ラファラン! 返事をしなさい!」

 敵が去った後、MARIONシステムのオートパイロットで戦線を離脱していたレティシアのドラグーンに呼びかけるラーニア。しかし、レティシアからの返事はなく、機体はドラグーン本体にある補助エンジンでフォーマルハウトへ力なく帰還を始めている。既に失われている右翼が痛々しい。

 生命反応はあるため、死亡していないのは確認できる。五号機から伝送されてくるパイロットの呼吸数、脈拍及び血圧はいずれも正常値を示しているため大量の出血もおそらくない。しかし、レティシアが今どういう状態なのか詳しいことはまったくわからない。メイン・エンジンを投棄してしまったためレティシアのドラグーンは生命維持に電力をまわすと必要最低限のセンサーを除いて画像を送ることまではできず、彼女の表情を窺い知ることはできない。

「返事をしてよ、レティ……!」

『隊長、間もなく着艦態勢に入ります。デッキ・オフィサーより、ラファラン少尉の機体を先に着艦させよ、とのことです』

 ローゼフ少尉からの報告を聞き、

「ええ、わかった」

 と短く返事を返すラーニア。ドラグーンは高精度のオートパイロット機能を搭載しているため、パイロットが気絶していても着艦することは可能である。また、母艦側から操作することも可能であるため、着艦に失敗することは滅多にない。

『こちらフォーマルハウト着艦甲板。ラファラン少尉の機体を捕まえた。他の機はラファラン機の着艦と収容が無事終了するまで着艦を待て』

「了解。レティをよろしく」

『任せておけ』

 力なく返事をするラーニアの声に、わざと陽気な声を出したようなデッキ・オフィサーの言葉が返ってきた。ラーニアはそんな心遣いに、それを見てもほとんどの人間はわからなかったであろう、口許をほんの少し緩めた。

 

 

 ラーニアが着艦し、コックピットを出た時には既にレティシアは医務室に運ばれた後だった。レティシアの機体の周りを整備兵が集まり、怒声にも似た指示が飛び交っていた。投棄したエンジンもまだ回収できる位置にあるため、作業・曳航用の小型船艇がたった今出ていったところだ。

 ラーニアはコックピットを飛び出して乗降デッキを舞い降りると、パイロット・スーツのまま医務室へと走り出していた。

 彼女は、途中で多くの乗組員にぶつかりながらようやく医務室の前まで辿り着くと、ドアの前で荒い息を整え、医務室へと入って行く。

「失礼します!」

 医務室には、集中治療用のタンク型ベッドが一基あり、そこにパイロット・スーツを脱がされ、白い検査服だけになっているレティシアが寝かせられていた。

 ラーニアが入ってくると、机に座って書類を書いていた軍医が顔を上げた。アジア系の顔立ちで、長く、黒い髪が印象的な女性軍医だった。

「えーと、あなたは?」

「ラーニア・ローアス大尉です、軍医中佐殿」

 ラーニアは、レティシアももちろん心配だったが、上官である軍医に礼を失することはなかった。これは彼女らしい部分と言えた。

「……ラファラン少尉ですね?」

 女性軍医が真顔でラーニアの視線を捉えて尋ねる。ラーニアはゆっくりと頷く。ラーニアの真剣な表情に、軍医はいかにレティシアが彼女にとって大切な存在かを彼女は理解した。そして、真剣に友人を心配できるそのことにやや嫉妬にも似た感覚を抱くのだった。

 彼女は先ほどの真顔とはうって変わってにっこりと笑った。

「そうですか。それなら心配要りませんよ」

 その言葉にラーニアの表情の緊張が一瞬緩んだ。女性軍医は彼女の反応を確かめてから続けた。

「どこかに頭を打ったらしくて脳震盪を起こしていましたが、骨にも脳にも異常ありません。精密検査をしてみないとはっきりしたことは言えませんが、バイタルも安定してますし、見たところ他の個所もこれと言った怪我はしてないようですね」

 黒髪の女性軍医は特に他に患者もいなかったこともあるが、カルテをめくることなく、タンクの樹脂性カバーに手を触れながらラーニアにそう告げた。

「あ、ありがとうございます! 軍医中佐殿!」

 ラーニアは軍医の前まで弾かれるように前に歩み出ると、彼女の手を取り、満面の笑みで礼を述べた。女性軍医は少し驚いたような顔をしたが、すぐにラーニアの笑顔に応えるように笑顔へと変わった。

「私はミゾレ・ユキカゼ。見てのとおりフォーマルハウトの軍医です。名前を発音しにくい人は、似てるからって大昔の軍艦の名前をとってユキカゼと呼ぶ人もいるから、好きなように呼んでください。それから、えーと、これからは〝中佐殿〟は、やめてくださいね」

 中佐殿と呼ばれて照れ笑いをしながら言うミゾレ。

「は? はぁ。わかりました、ちゅ……じゃない、えと、ユキカゼ先生」

「ひとまず安心しました? とりあえず立ったままってのもあれですから、どうぞおかけください。ヘレーネ、大尉にコーヒーでもお出しして」

「はい、わかりました」

 軍医付きの衛生兵であるヘレーネ・ヒルベルト伍長はミゾレの要請に応じてコーヒーを淹れ始めた。

 

 ベルンハルトをはじめとするその他の中隊員は着艦してからレティシアの機体が中破したことを告げられた。

(あの、赤い奴か……?)

 ベルンハルトは先刻の戦闘でまさに自分を撃墜しようとしたバルクハウゼンのナイトブレードを思い出していた。もちろん、ベルンハルトたちはあの機体がナイトブレードという名前であることも、バルクハウゼンがパイロットであることも知る由はない。

「少佐、この間の戦闘の後に報告があった例の赤い機体ですか?」

 クラリッサ・マクレイン中尉はマーリオンと並んで歩きながら、マーリオンの横顔に向かってベルンハルトが抱いていたのと同じ質問を投げかける。

「そのようです。パイロットも相当の腕前と見て間違いないでしょう」

 マーリオンは厳しい表情のまま、デブリーフィングを行うために格納庫の出入口に向かって歩みを止めない。

 

 戦闘終了から約三十分の後、ようやく艦内も落ち着きを取り戻してきた頃、医務室のドアが再び開いた。

「あら、マーリオン。それに艦長」

 ミゾレはラーニアの肩越しに二組目の医務室への来客を認めた。ラーニアは、振り向いて確かにマーリオンとシャオであることを確認すると、すぐに立ち上がって敬礼を施す。ラーニアはいまだにパイロット・スーツのままだった。

 マーリオンはラーニアに楽にするように告げると、ミゾレのほうへそのまま進み出た。

「ラファラン少尉の容態はどうですか……」

 マーリオンは、ミゾレに問い掛けながら、ラーニアの顔をちらと見た。そして、ミゾレからの返事を待つことなく、

「……大丈夫なようですね」

 カルテを持ってきたミゾレはマーリオンのその言葉に怪訝な顔でドラグーン中隊長の顔を見た。

「容態が悪ければ、ローアス大尉が大泣きしているはずですからね」

 マーリオンは少し意地悪そうな笑みを浮かべてラーニアを見た。ラーニアはマーリオンと目を合わせようとせずに、恥ずかしそうにうつむいている。

 シャオは、ラーニアの前に立ち、彼女の視線を真正面に捉えた。いつになく真剣な目のシャオにラーニアも目をそらすことはできなかった。先刻、艦橋で見た呑気な雰囲気のシャオはそこにはいない。

「ローアス大尉、今回のことは、私にも責任があります。少尉は既に実戦を経験しているのも鑑み、第三艦隊のことをお話しましたが、正直ここまで取り乱すとは想像しませんでした」

 第三艦隊の名前が出ると、ラーニアの表情が曇る。

「でも大尉。これだけはわかってください。これからも第三艦隊が奇襲されたこと以上に辛いことがあるかもしれません。でも、それに耐えていけなければ、次に死ぬのは自分だということを」

「は。肝に銘じます。少尉には私からよく言って聞かせます」

 

 次の日、敵の襲来に備えて二十四時間体制で哨戒が続いたが、銃弾一発飛んでこなかった。第六艦隊は半数の艦艇を失い、多くの艦載機を失ったために、一旦後方へ退がって戦力を建て直していると推測された。もちろん、反乱軍の戦力は第六艦隊だけではないため、新手の出現にも注意が払われていた。

 フォーマルハウトはカタパルトに損傷を受けつつも、月軌道付近まで辿り着いていた。

「月があんなに大きく見える……」

 リリアが窓の外に見える灰色の月を眺めてそう言った。

 ここはフォーマルハウト艦尾の展望室。厚い装甲に覆われた隔壁が平時には開かれ、乗組員たちの憩いの場となる。全方位ガラス張りで、後ろに見える地球も、前方に見える月も首をめぐらせば一望することができた。全方位ガラス張りということはその部分は非常に耐久性が落ちることになるが、戦闘時には展望室ごと艦内に引き込まれ、上方の隔壁が閉じるため、特に心配はない。また、この部分にだけ重力制御システムを応用した空間歪曲型シールドが二重に備えられているため、急襲の場合にも直撃はできるだけ避けられるようにできている。

 宇宙空間では何かと精神的に圧迫があり、娯楽も限られていることから、このような展望室は大型艦艇には必ずといって良いほど取り付けられている。駆逐艦などの小型艦艇でも全方位とはいかずとも展望室は取り付けられているのが普通である。

 乗組員の精神的安定は士気に大きく影響するため、多少コストがかかっても、軍艦に展望室を取り付けるのである。

「月は初めてか?」

 ベルンハルトは手すりに寄りかかって隣りのリリアに尋ねた。哨戒任務は今ドラグーン第四小隊があたっているためミュリエルは任務中、今はベルンハルトとリリアだけだ。

「はい。でも、できればこんな形では来たくなかったです……」

「そうだな……」

 しばらくの間、二人の間に沈黙が流れた。展望室のそこかしこではひとときの休息を楽しむ乗組員たちの話し声が聞こえる。

「ヴェルナー……さんは、なんで軍隊に入ったんですか……?」

 その沈黙を破ったのはリリアだった。

「え? ああ、まぁいろいろあるけどな……。唐突な質問だな」

「いえ、まだ同じ艦に乗ってから日が浅いせいもあると思うんですけど、お互いのことを何にも知らないな、と思って……。慣熟訓練の時はほとんど話しませんでしたし……」

 ベルンハルトもこの意見には同意せざるを得ない。実際、リリアに対してどんな話題を話せばいいのかまったく見当も付かない。相変わらず、赤い機体の男が言っていた言葉に関しては他の人に話す気持ちにはなれない。マーリオンにさえ報告していないことだ。

「そうだな……。毎日が退屈だったからじゃないか?」

「退屈……?」

「そうさ。サラリーで働くのは性に合わないし、家業を継ぐ気もない。それでいて刺激が欲しいって言うんだから虫のいい話だけどな。軍隊なら何かありそうだと思ったんだろうな」

 これはベルンハルトの本心ではなかった。別段、リリアに嘘をつくつもりもなかったし、嘘をつく理由もなかったのだが、つい当たり障りのない言葉を並べていた。しかし、ベルンハルト本人も、自分が軍隊に入隊した理由を正確には把握していなかった。マーリオンへの憧れ……? ボレアス行きの往還輸送機に乗っていた時まではそれが理由の大半だと思っていた。しかし、それも戦争に巻き込まれた今となっては本当の理由だったのかどうかさえ怪しく思える。

「ご実家は自営業なんですね……? なんのお店ですか?」

「パン屋」

 ベルンハルトはリリアの顔を見ずに、虚空を眺めながら短く答えた。

「ヴェルナーさん、きっとパン屋さんでも似合ってましたよ」

 ベルンハルトは微笑んでそう言うリリアの顔を見て微笑み返したが、なぜかその心は晴れやかではなかった。

 ベルンハルトが窓の外に視線を移した時、目の前を一機のドラグーンが通り過ぎた。

「あれ、ミュリィじゃないか?」

 

 ベルンハルトがミュリエルのドラグーンに気が付いて指差していたちょうど同じ時、ドラグーンのコックピットで彼女は身を乗り出してモニターを食い入るように見つめていた。

「な……、なんであんなところに二人っきりで……!?」

 最大望遠にした機首側面のカメラの映像には展望室にいるベルンハルトとリリアが映っている。通りすぎた一瞬でスチルしているため、画像は止まっている。

『任務に集中しろ! アンダーソン少尉!』

 モニターに気を取られて哨戒コースを外れかけているミュリエルに対して第四小隊長のルドミラからの叱咤の怒声が飛ぶ。

『ミュリィちゃん、なんか怒ってます……?』

 ミュリエルの座るコックピットのモニターにルイーゼ・フライスラー少尉がミュリエルの表情を覗き込むように見つめる顔が映る。

「べ、別に怒ってなんか……」

 ミュリエルの反論をよそに、ルイーゼは、不意にミュリエルからでは見えない映像外の別の方向に目を向けると、

『ああ、これですねぇ~。ミュリィちゃん、この二人が気になるんですかぁ?』

 と得心のいった顔で嬉しそうに言うとミュリエルに視線を戻す。

 ルイーゼはミュリエルが撮影した展望室のスチル画像をデータ・リンクで取得したようだ。普段はとぼけた雰囲気のルイーゼだが、こういったことにだけは恐ろしく勘がいい。艦外から中の様子が見えるのは展望室だけであるから、誰でもある程度目星はつくのではあるが。

「ちょ、ちょっと、勝手に見ないでよ! MARIONも私に無断で送っちゃダメでしょ!」

 哨戒任務が始まった時に通常のオーダーに従い、取得した情報は戦術データ・リンクを用いてすべて小隊内で共有する設定にしてあったため、MARIONシステムにしてみれば当初の命令どおりに情報共有を実行したまでのこと。とんだとばっちりである。

  ミュリエルは電子戦関連装備の機能に疎く、データ・リンクが何であるかも正確には理解できていなかったため、MARIONシステムに任せっきりにしていたのが裏目に出た。ミュリエルは先ほど撮影した画像を慌ててMARIONシステムに命じて消去するが、時既に遅し。

『なるほど、わかりました~。ミュリィちゃんは嫉妬の炎に燃えてるんですねぇ~?』

「そ、そんなんじゃ……! 知らないわよ、あんな奴!」

 むきになってルイーゼの写っているモニターに向かって必死に否定するミュリエル。それを見てルイーゼは図星だと言ってけらけらと笑っている。

『真面目に任務を続けろ! さもないと二人とも撃墜するぞ!』

 ミュリエルとルイーゼはルドミラからの脅しにもまったくひるむことなく、相変わらず漫才を続けている。あまりに緊張感のなさにルドミラの顔からだんだん血の気が引いてくる。

『いい加減にしろ!!』

 

 先の戦闘で機体に損傷を受け、パイロット自身も気絶したまま帰還したレティシアは、精密検査の結果、目立った外傷もなく、脳波にも異常がないことから、医務室から自室に戻されていた。

「あ、あれ……? ここどこ……?」

「レティ!? 気が付いた?」

 ベッドの傍らに座っていたラーニアは、うっすらと目を開け、半日以上眠っていたためにまだ意識がはっきりしてないレティシアの顔に自分の顔を近寄せた。

「ラーニア……。あたし、生きてるのか……」

 レティシアは、そう呟くと、自分の目の前に手をかざした。指と指の隙間から照明の白く冷たい光がレティシアの目まで届く。彼女の五感は正常に機能し、痛みもない。やがて、レティシアは視界がはっきりしてくると起きあがろうとする。ラーニアは無理をするな、と言うようにレティシアの肩を押すが、レティシアの「大丈夫」、という言葉に手を引いた。

 起きあがったレティシアはしばらく言葉もなく、ぼんやりと自分のつま先の方を見つめていたが、ふと、口を開いた。

「ラーニア、あたし……」

「ん?」

 ラーニアはレティシアの背中に手を置き、声がよく聞こえるように顔を近づける。

「あたし……、何を信じればいいんだろう……」

 レティシアは相変わらずどこを見ているのかよくわからない瞳のまま呟くように言う。

「今回のことで、自分がいかに無茶苦茶をやったのかはわかったよ。ドラグーンに乗ってると何でもできるような気がしちゃうんだ……。アレは怖い乗り物だね」

 レティシアは、全速力でマクウィルソンが乗っていた敵艦アークツルスに向かって突き進んでいた時の感覚を思い起こしていた。以前に乗っていたハンターではありえないほどの加速と、漆黒の闇に融けて見えなくなる星の光。自分を殺そうと集まってくる敵の対空砲の火線でさえ敵艦へ導く花道のように見えた。それは、自分とは異なる別の人格が彼女の耳元で、我らに恐れる物など何もない、と囁いているかのようだった。

「でも、間違いをする度に毎回死ぬ思いをしてたんじゃ、いくつ命があっても足りないよね」

「そうね……。今のあなたに必要なのは、あなたを導いてくれる誰かよ」

 ラーニアの言葉の後、少し間があった。

「……それは……、シャオ艦長のことを言ってるの……?」

 レティシアは、はじめてラーニアの顔を見た。ラーニアが何を自分に諭そうとしているのか敏感に察したようだ。

「艦長のことは信じられない?」

 レティシアの中で、いまだに艦長、すなわちシャオに対する不信感は完全に払拭されたわけではなかった。今思えば、第三艦隊の状況を正直に話してくれたことはレティシアたちの気持ちをある程度察してくれていたのだと理解できなくもない。しかし、第三艦隊の苦戦を目の前にしながら、なぜあそこで見捨てたのか、それだけはいまだにどうしても納得できない部分だった。

 レティシアは、ラーニアの問いには直接是非をはっきりさせず、別の人物の名前を出すことで応えた。

「ラーニアだったら信じられるよ」

 ラーニアは、一度目を伏せ、少し考えてから応えた。

「……いいわ。レティがそうしたいならそうしなさい。でも、私も軍人。少佐の命令には従わなければならないし、少佐は艦長の命令に従わなければならないのよ」

 レティシアは黙っている。特に表情が変わらないところをみると、そのことについて異論はなく、拒絶する気はないようだ。しかし、レティシアがそのことをちゃんと理解できているのかどうか、話の方向を変えてもう一度念を押してみることにした。

「それから、あなたも軍人。戦争が始まったからと言ってこの艦やドラグーンを自分の意思で降りたりはできないのよ?」

「……わかってる。だから、ラーニアの命令でだったら戦える」

 ラーニアに全幅の信頼を寄せるかのように、彼女の名前を口にするのは二回目になった。

「そう……。じゃぁ、ひとつあなたに命令するわ」

 いつもと違うラーニアの様子に、レティシアの瞳に少し戸惑いの色が見えていた。自然に瞬きの回数も増える。しかし、ラーニアの目から視線をそらすことはない。ラーニアの言葉をじっと待つ。

「命を大事にしなさい」

 ラーニアは、はっきりとした口調で彼女の命令を伝えた。レティシアは、ラーニアがもしかしたら「艦長の言うことに従いなさい」と言うのではないか、と余計とも言える心配をしていたが、それが杞憂だと判ると内心ほっとした。しかし、ラーニアの言葉には続きがあった。

「これは艦長の言葉でもあるわ」

 ほっとしたのもつかの間、再びラーニアが艦長という言葉を口にして、さすがにレティシアも不快感を顔に出す。そして、何かを言おうとするが、それはラーニアの言葉に遮られた。

「私の命令にだったら従えるって今言ったじゃない。私がいつもあなたに都合のいい命令を出すとは限らないわ。今は艦長の言葉と私の言葉がたまたま一致していただけ。それとも、艦長と同じことを私が言うと従えない?」

「そ、そんなことは……」

 やや語調を強くしてレティシアの言葉を遮ったラーニアに対し、目をそらし、うつむくレティシア。やはり、レティシアはラーニアの最初の言葉の意味を、自分が言った言葉の意味を正しく理解できていなかった。マーリオンを通じてシャオが下す命令にラーニアが従わないことは、まずありえない。また、ラーニアがシャオから直接命令を聞いていなかったとしても、ほとんどの場合シャオと似たような判断をするだろう。その時に、シャオと同じ命令だから従えない、従わなければよかった、と言うのでは、レティシアは常にラーニアの命令に従わないと言っているのとほぼ同じことなのだ。

「じゃ、今の命令は承服できる?」

 おおよそ上官から部下への命令とは思えないほど優しげな口調でラーニアはレティシアに承服を促す。レティシアは、子供のように、黙って頷いてこれに応えた。ラーニアは、まるでレティシアの母のように目を細めて微笑む。

 レティシアは、しばらく間があった後で唐突に話の方向を変えてきた。

「……ラーニアは、第三艦隊は無事だと思う?」

 まるでそのうちに出ることを予想していた質問に答えるようにラーニアは少しも慌てずに答えた。

「わからないわ。神でもない私には……。艦長の真似をするわけじゃないけどね。自分の目で確かめるのが一番じゃないかしら。私も自分の目で見るまでは何も信じないわ。でも、自分の信じた結果にならなかった時もそれを受け入れる覚悟はしてるわ」

 ラーニアは余計なことでレティシアをぬか喜びはさせまいと、毅然とした口調で「わからない」と最初に断言する。これを聞いてレティシアは、さっきの出撃の前にこの質問をラーニアにしておくべきだったと少し後悔した。

「ラーニアは強いんだね……。もし、第三艦隊がどこにもいなかったら、私は普通でいられるのかな……」

 最悪の事態を想像してレティシアは不安げな表情を浮かべて独り言のように、しかしラーニアに何かを言って欲しくてついそんな言葉を言ってみた。

 ラーニアは何も答えない。レティシアは、少し気落ちしたような顔でうつむく。

「……そんなこと、聞かれてもわからないよね。私がまたもし取り乱したら……」

 レティシアはそこで言葉を切り、再びラーニアの瞳を捉えた。

「……次は殴ってでも『落ち着け』って命令してね」

 懇願するような瞳でレティシアに見つめられたラーニアは、目で頷き、首でも二回小さく頷いた。

「それから、あたし、ひとつ気が付いたことがあるんだ……。西アジア内乱で……、誰も死んでなかった。あたしの周りの人は誰も……」

 西アジア内乱は、内乱の規模としては今回の反乱に比べてそれほど大きくなく、反乱軍が所持していた宇宙戦力も一個艦隊に満たなかった。そのため、物量に優る正規軍が踏みつぶすような形で内乱は終わった。

 もっとも、規模こそ小さかったものの、精鋭が揃い、ひとつの目的に向かって突き進もうとする反乱軍の志気は高く、そこかしこで味方同士が戦い、血を流す悲劇が起こったことは間違いない。その中で、己の理想のために、まさに文字通り死にものぐるいで戦う反乱軍の艦載機をことごとく撃墜し、名を馳せたのがマーリオンなのである。

 しかし、レティシアの所属していた第三艦隊は反乱軍と一度は槍を合わせ、レティシア自身も出撃こそしたものの、艦隊そのものが第二陣として控えていたため、直接の被害が及ぶことはほとんどなかったのである。そして、幸か不幸か、レティシアとラーニアの乗艦していた戦艦アルファルドに搭載されていた艦載機は奇跡的に一機も撃墜されなかったのである。

 したがって、レティシアとともに西アジア内乱を戦った仲間は負傷者こそあったものの、一人として死ぬことはなかったのである。

「仲間が死ぬことって、すごく辛いことだけど……。内乱の時にはそのことを漠然としか解ってなかった。ううん、解ってたつもりだったんだ……。目の前でたくさんの人が死んだし、あたしだって間違いなく人を殺してるのに……」

 ラーニアは黙ってレティシアの言葉に耳を傾けている。

「あたし、頭悪いから何が正しくて何が間違ってるのかなんて、よくわからないけど……。第三艦隊が無事だと信じることも、期待を裏切られるのが怖くてできないけれど……。ドラグーンにも怖くてもう乗りたくないけれど……」

 〝けれど〟の後が続かないレティシアの言葉。その後、二人の間に長い沈黙が流れる、フォーマルハウトも軍艦である以上は、居室の壁は視界を遮るため以上の機能は期待できず、防音は気休め程度でしかない。普段なら遠くで大きな物が動くような音や、乗組員のざわめきが聞こえるものだ。しかし、部屋は驚くほど静かだ。

「ラーニアと一緒なら、あたし、がんばれるよ。きっと」

 まとまりのないレティシアの話を聞きながら、逐一頷き、彼女の言葉から何かを感じ取ろうとするラーニア。少なくとも、たくさんのことが一度に起こりすぎてレティシア自身も相当混乱しているうえに、一歩間違えば自分が今頃生きてはいなかったような出来事があったことでショックを受けており、弱気になっているのはすぐに判った。ラーニアは、ひとしきり話を終えたレティシアをベッドに寝かせる。

 横になってからもレティシアはぽつりぽつりと話をしていたが、そのうち寝息をたてて眠りについた。それを見届けるとラーニアは部屋の外に静かに出て、中の様子を気にしながらドアを閉じる。

 彼女は、ドアが完全に閉じてしまうと、そのままドアに向いたままうつむき、呟いた。

「私の命令……か……」

 

「艦長。ラファラン少尉の処分はどうしますか。隊長からの命令を無視して独断での吶喊、危うくドラグーンを失いかけたことは、どう見ても軍規違反と考えざるを得ませんが……」

 同じ頃、アレクシスは艦橋でシャオに今後の対応について指示を仰いでいた。原因と結果はどうあれ、過程の中で実際に行われた命令無視と私情による艦載機の乱用は処分に値するというのがアレクシスの考えだ。

「そうですねぇ。今回の件では、本人も手痛いしっぺ返しを食らったわけですから、あえて懲罰を与える必要はないと思うんですがね。引き金を引いたのは私でもありますし、本人にだけ責任を問うのはいかがかと思いますよ」

「しかし、彼女は明らかに艦長に対して不満を持っています。ここで甘やかさないほうが本人のためかと思いますが」

 なおも食い下がるアレクシスだったが、シャオはレティシアが自分に不満を持っていることについては反論しなかった。

「そのことはいいんですよ。私に不満を持ちたければ持ってもらって」

 アレクシスにはシャオが何を言っているのかすぐには理解できない。つまり、シャオはわざと自分に不満を持つように仕向けたということか? というところまで考え、ふと気が付いた。

「そういうことですか……」

「そういうことですよ。構成員の全員が、何の不満もない組織というのはこの世の中に存在しないんですよ。もし、そんなものがあったら、緊張感がなく、結束も、競争も、見返してやるという発奮も生まれず、その組織はそう長くは続かないでしょうね。特に軍隊のような息苦しく、個人の自由がきかない組織の場合は、不満をぶつける適当な相手がいないと、思い通りにならないストレスで押し潰されてしまいます。それを誰かと共有することで、結束力が増すということだってありますしね」

 アレクシスは口には出さないでいたが、正直、今回の件はほとんどシャオの判断ミスが原因だと考えていた。もちろん、単純にタイミングが悪かっただけかもしれない。しかし、反乱軍が七日後と予告していたものを急に早めて襲ってくるなどとは誰も予想しておらず、タイミングの問題は不可抗力の部分もあった。それを差し引いたとしても、安易に不確定な情報や、単なる伝聞を部下に伝えるのは適切ではないと考えていたのだ。

 しかしシャオは、レティシアが白とも黒ともつかない事柄に思い悩んで不安を抱えながら戦うよりは、隠しても、正直に話しても、どちらにしても不満を持たれるのならば、不満がかえって増大する危険があったとしても知りうる限りの事実を伝えるほうが後のためには良いと考えていた。また、目の前にいる不満をぶつける明確な相手がいた方が彼女の精神的な安定には良いとも考えたのだ。それが彼女の中である程度消化される前に敵が襲ってきてしまったのは誤算だったが、本人が知りたいと言い出した時が一番良いタイミングとも言えた。

 部下は大抵、上官に対して多かれ少なかれ不満や疑問を持ったりするものだが、あえて自分に不満を向けさせて自分が上官であることを意識させるという方法はアレクシスのこれまでの軍歴の中では体得してこなかったものだった。誰も好き好んで自分が嫌われたいなどとは思わないし、もし自分が部下の全員から嫌われていたとしたら自分の命令など誰も聞かなくなるだろうと考えるのが普通だ。

 シャオは、ラファラン少尉との間にはマーリオンとラーニアがいることを考えに入れ、自分が嫌われていても緩衝材になってくれる二人に期待したのだ。これは部下に対する絶対的な信頼がなければそうそうできることではない。必ずしも尊敬されたり好かれたりすることを望まないシャオ一流の人心掌握術とも言えるが、今後更に重大な裏切り行為がある可能性も否定できない。あまりにもリスクが大きすぎて、とてもアレクシスには真似する気になれなかった。編成されたばかりの部隊であるならなおさらであり、MARIONシステムに既に登録されてしまっているレティシアからドラグーンを取り上げて別のパイロットに与えることもできないからこそ、彼女がそれをどのように使うかに最大のリスクがあるのだ。

「もし、ボルン少佐とローアス大尉で抑えきれない場合は、中佐、お願いしますね」

「わかりました……」

 アレクシスはもともと軍規や上下関係には厳しいほうだったが、シャオが自分には厳しい上官でありつつも艦長の前にある最後の砦として幾分硬めの緩衝材を演じよと要求していると解釈した。それには別段不服はなかったが、彼は、部下に対するスタンスを今一度見直さなければならなくなった。

 

追記(2014年12月4日)

2020/01/22