A Record of Earth-side War
VANGUARD FLIGHT the Novel
環地球圏戦記ヴァンガード・フライト
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第二章 月基地フォン・ブラウン |
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「博士、ご覧になられましたか?」 部下と思しき若い技術者風の男が図面から目を離そうとしない口ひげの男に話しかけた。 「……例の声明かね?」 しかし、口ひげの男は若い技術者の方を振り向きもしないで返事をするだけだ。 「お嬢さんがGUSFにおられるのでしょう? たしか、新造艦の空母に乗っておられるとか……」 「マーリオンのことかね。なに、あれは私には過ぎた娘だ。前の~、ほら、あれだ。あれはバグダッド内乱だったか? あれの時みたいに英雄になって帰ってくるさ」 口ひげの男は相変わらず図面の写っているディスプレイから目を離そうともせずにあっさりと言ってのけた。彼の目の前にあるディスプレイは、現代で使われているような小さなモニターではなく、八十インチは悠にあろうかという大画面液晶のディスプレイだ。彼の仕事場はその画面から少し離れたところにあり、広い机を兼ねたキーボードとトラックボールをひっきりなしに操作している。もちろん、これは誰にでも与えられる環境ではない。トップ技術者のみに与えられる最高の環境なのだ。他の駆け出しの技術者は現代のものと大して変わらない大きさのディスプレイとにらめっこをする毎日である。 少しは心配しても良さそうなものなのに、と若い技術者は思いつつ、小さな溜息をつく。 彼らはまだ知らない。フォーマルハウトが既に攻撃され、戦闘を経験していることを。 「でも、父親としては嬉しいんじゃないですか? 自分の設計した航宙機に娘が乗ってるなんて」 同じ設計室に所属している女性技術者がそこを通りかかって、一旦脚を止めて口ひげの男にちょっと大袈裟な風に言う。 「さて、それはどうかな……。それはそうと、トムソン君、例のあれはできてるかな」 彼は、彼の娘に関する話にまったく乗ってくる様子を見せず、部下に先日頼んでおいた仕事の提出を要求する。いつものことだ、と彼の部下達は顔を見合わせて肩をすくめるのだ。 口ひげの無愛想な男の名はクラウス・ボルン。ここマクレイン・エアロスペース月面工場の第一設計室の室長を勤める第一級の技術者である。航宙機に関する権威でもあるため、部下からは尊敬の念をこめて「博士」と呼ばれることもある。事実、航宙工学、ロケット工学、原子物理学の博士号を持つ学者でもある。そして、彼はフォーマルハウトに装備されているドラグーンの主任設計者であり、マーリオン・ボルン少佐の実の父親でもあった。 「室長、社長から至急のお電話が入っています。お部屋のほうへどうぞ」 助手の声にクラウスは、わかった、と短く返事をすると仕事の手を止めて立ち上がった。そして、設計室の奥にある自分専用の部屋に入る。 彼の部屋は殺風景である。無駄に広い部屋の片隅に電話を兼ねた端末だけが乗っている小さい机があるだけだ。本来ならば、彼の仕事場はここになるはずだった。最初は先ほどの大きなディスプレイも、机も、すべてこの部屋にあった。その名残として、極太のケーブルの束が壁から伸びて、無造作に床に転がっている。長年雑多な設計室で過ごしてきた彼は、一人で籠もって仕事をすることを嫌った。彼は雑多で、同僚の話し声や雑音でうるさい設計室が好きなのだ。その割に他者との会話の応対は無愛想という一見相反する面も持つ。 マクレイン・エアロスペース社内でも最も重要な設計部署の長たる彼にはなにかと機密扱いの話がよく来る。電話だけこちらの部屋に置いているのはそのためであり、厳重な防音の施された自分専用の部屋に電話だけは置いておく必要があるのだ。電話の応対をする助手が「部屋へ」、と言った時には、設計室のメンバーであっても直接聞かせることができない話題であることを示している。クラウス自身が自分の部屋で仕事をすることを好まないため、結果的に今の電話は他言できない内容だったと設計室のメンバーに大声で知らせているような形になってしまっているが、誰もその内容を詮索しないし、クラウス自身も自分が話さなければいいだけのことなので別段気にしていなかった。 電話の相手である社長のウォルターは現在地球にいるため、クラウスのいる月との間の距離は電波、すなわち光の速さでも一秒と少しかかる。幸い、月はいつでも地球に表だけを見せているため、自転によって直接電波が届かない可能性があるのは地球側だけで、中継用の通信衛星は地球の衛星軌道上にしかいない。中継に要する時間も含めて、音声と映像が相手に届くまでには大昔の国際電話や衛星中継くらいの遅れがある。 彼はおもむろに電話のフック・ボタンを押す。すると、電話機に備え付けられたモニターにマクレイン・エアロスペースの社長であるウォルター・ロジャー・マクレインの顔が写る。この時代の電話は映像も一緒に送れ、リアルタイムに、しかも鮮明な画像を送ることができるが、地球との通話の場合はそこに映っている通話相手は一秒前の姿である。 「お待たせしました社長」 『クラウス、君に至急伝えたいことがあってな……』 ウォルターが内密に、至急の話があると言う時は大抵、その内容はトップレベルの社内機密だ。しかし、クラウスには、社長ウォルター・マクレインが次に何と言うか、反乱軍の声明があった時からほぼ予想がついていた。 『フォーマルハウトが第六艦隊に攻撃を受けたそうだ』 しかし、クラウスは特に驚いた様子もなく、 「第六艦隊の被害は?」 と間髪入れずに問う。 普通の父親ならば、先に自分の娘の乗るフォーマルハウトの安否を気遣うところだろう。しかも、会話の流れからすれば攻撃を受けた側の被害を聞くものであろうが、彼は攻撃した側の被害だけを聞いたのだ。傍から見れば非常に噛み合っていない会話のようにさえ聞こえるだろう。しかし、それに対してマクレイン社長も、それが当たり前のようにフォーマルハウトの戦果を伝えるだけだった。 『……轟沈三隻、大破一隻だそうだ』 「室長ったら、娘さんがまた戦争に巻き込まれるかもしれないって言うのに、冷たいものね」 先ほどの女性技術者は、自分の肘をかかえるようにして、クラウスの入っていったドアをやや呆れた顔で見つめた。 「そう言うなよ。娘さんだって、望んで軍に入ったって聞いたぜ? だったら、何かあったからってすぐに騒いで呼び戻そうとか言い出すのは娘さんのためにならないんじゃないのか?」 「そうかしら?」 女性技術者は溜息をつきながらそれでもクラウスの言動に納得がいっていない様子だ。 「ところで今夜あいてる? 良い店を見つけたんだ」 「おあいにく様、今日は残業よ」 二人がそんなことを話していると、クラウスは電話を終え、設計室に戻ってきた。彼が自分の部屋に入ってから五分ほど経っていた。 「みんな、ちょっと集まってくれないか」 クラウスの召集に応じて、設計室のメンバーは、自分の仕事を一旦中断し、設計室の一角にある長机の周りに集合した。この長机は普段は設計室内での議論などに利用するための場所で、簡易会議室とも言える場所だ。長机は、ドラグーンを開発した一級の設計室のものではあったが、決して豪華な品物ではない。 設計室の面々は、電子ホワイトボードの前に立ったクラウスに注目する。 「GUSFのフォーマルハウトが攻撃を受けた」 クラウスは、いたって手短に、静かにそう言い放った。 設計室の面々は、先ほどの社長からの電話のためにクラウスが自分の部屋に入ったので、内密にしなければならない内容であろうということは予測していた。しかし、声明では確かに七日後に実力行使に移る、という話だったから、早くてもその報を聞くのは七日後だと思っていたのだ。 設計室の誰もが、声明を聞いてから少なからず期待はしていたことだが、それを口に出すことはできなかった。彼らは技術者である前に、地球圏に住む人類の一員だからだ。兵器を開発する技術者であっても、戦争を望むような発言は慎むべきと考えるのは常識的な考えである。 しかし、このクラウスの一言によって、彼らの心の中にある堰は一気に突き崩された。 「じゃ、じゃぁ……」 誰かが呻くように言う。 「俺達のドラグーンが……」 「そうだ。実戦を経験した。そのドラグーンを載せたフォーマルハウトは、当初の予定どおりこの月のGUSF基地、フォン・ブラウンに向かっているという話だ」 クラウスは机に手をつき、同僚を上目で捉えて淡々と言ってのけた。 「いや、あの。室長、これは喜ぶべきことなんでしょうか……。室長のお嬢さんもドラグーンのパイロットでしたよね?」 先ほど、クラウスに向かって、娘が自分の設計した機体に乗っているのはどんな気分か、と聞いた女性技術者が複雑な表情をして聞く。 「何を言っている。これは喜ぶべきこととだ。しかも、我々のドラグーンは、第六艦隊の艦艇を三隻も沈め、一隻を戦闘不能にしたという話だ。これを喜ばずして何を喜ぶのだね」 設計室のメンバーは、第六艦隊の半数にのぼる艦艇が致命的な打撃を受けたとの報を聞いて、頭のてっぺんに稲妻が落ちたような感覚を覚えた。そして、自然に握り拳に力が入っていく。 確かに彼らの設計したドラグーンは敵を倒し、その実力をいかんなく発揮したのだ。技術者としては喜ぶべきこととだ。しかし、その喜びを表情に出すことはできない。なぜなら、その戦闘によって、多くの人が傷つき、多数の人命が失われたことは間違いのないことだからだ。そして、それは戦端が開かれたことを意味し、これから多くの人命が失われるであろうということはもはや確約された事実でもあるのだ。技術者としての喜びを表に出さないことは、人間として、最後の良心と言えるものだ。 しかしながら、その中で、クラウスは不敵な笑みを誰はばかることなく見せる。まるで、それが当たり前のことであるかのように。 設計室の面々は、底知れぬクラウスの心中に恐怖にも似た感情を覚えた。 先ほどまでクラウスと話をしていたマクレイン・エアロスペース社長、ウォルター・マクレインは、電話を切ると、ふっと小さく笑った。 ここは高層ホテルの一室。彼の仕事場ではないが、庶民が泊まるような、ベッドが納まれば他にほとんど場所がなくなるほどの小さな部屋ではない。それこそ、庶民の住む家が何件も入ってしまうくらいの大きく、かつ豪華な部屋だ。そこには寝食をするための設備だけでなく、仕事も行えるように机から電話から通信用の端末まで、ありとあらゆるものが揃っている。ここをそのまま仕事場にしてしまっても良いくらいだ。彼はその部屋をたった一人で独占している。 「いかがいたしましたか? 社長」 彼の机の傍らに立っていた、真っ赤なスーツを着た金髪の美女がやや怪訝な顔をして、しかし、おそらくほとんどの人には無表情に見えたであろう表情で、ウォルターに問いかける。 「今の、クラウスの顔を見たか、ジェシカ。その場で高笑いしたいのを必死にこらえていた顔だったぞ」 ウォルターはそう言うと、喉の奥で笑いを漏らす。 「そうでしたか。ここからではよく見えませんでしたが、博士はご機嫌なようですね」 「ご機嫌もご機嫌、天にも昇る気持ちだろうさ」 そう言うと、彼は顔はまだ笑ったままではあるものの、ペンを取り上げ、再び自分の仕事に戻り始めた。 しかし、その後一時間もすると、つけっぱなしにしておいた衛星放送の画面に、緊急ニュースが流れ出した。 ウォルターは、ようやくか、という顔をして微笑混じりに画面を眺める。彼はジェシカに命じて衛星放送の音量を上げさせると、ペンを置き、机の上に肘をついて組んだ手の甲の上に顎を乗せた。 『番組の途中ですが、ここで臨時ニュースをお知らせいたします』 画面に映るアナウンサーは、緊張した面持ちで、それでいて職務を間違いなくこなそうという決意にも取れる表情で原稿を読み上げ始めた。 『協定世界時の本日未明、声明を発表した反乱軍の一部が、声明文にあった攻撃を開始するまで七日とした期限を自ら破り、GUSFの空母一隻に攻撃を仕掛けました。これは、GUSFの緊急記者会見において明らかにされたもので、これに対し地球統合政府議長ダグラス・マイヤー氏は、以下のような声明を発表しています』 画面が切り替わり、地球統合政府の青い円形のシンボルが描かれた演壇の前で拳を振り上げ力強く演説する統合政府議長の姿が映る。周囲の報道陣のカメラからおびただしい数のストロボが幾度もたかれ、瞬間的に画面が真っ白になるほどである。 『これは、統合政府ならびに地球圏への挑戦である! 彼らは現統合政府の解体と、新政府の樹立を要求しているが、自らが発表した声明を三日と守ることができない彼らに新政府を樹立する資格はない! ここに断言しよう、彼らに大義はないと! 私は、地球統合政府の、いや、全地球圏の代表として、反乱軍の傍若無人な要求と脅しに屈することなく、地球圏の平和と秩序を守るべく全身全霊をもって戦うことをここに誓おう!』 終始落ち着いた雰囲気で声明を発表したマクウィルソン提督に比べ、全身を使い、その決意を露わにするようなこの熱っぽいマイヤーの演説は、地球圏の人々の目にどう写っただろうか。真に正義を詠う熱血漢に見えたか、次期統合政府議長再選を狙ったアピールに見えたか、あるいは……。 『マイヤー氏はこのように述べ、反乱軍に対して徹底抗戦の姿勢を明らかにしました。攻撃を受けた空母はGUSFの新造艦「フォーマルハウト」で、同空母と同時に配備された最新鋭のF/A-26戦闘航宙機を十数機搭載しています。反乱軍はこの最新鋭戦闘機の奪取を狙ったのではないかという見解が専門家から出されており……』 ウォルターは、相変わらず微笑を浮かべたまま、リモコンを持ったジェシカに命じて衛星放送の電源を切らせた。この時点で、フォーマルハウトが攻撃を受けてから既に十二時間が経過している。ウォルターは、独自の情報網を通じてこのことを今から約四時間前に知っていたのである。 「ジェシカ、次の予定は?」 「そろそろ統合政府議長ダグラス・マイヤー氏との会食のお時間です。お車の方へ移動なさってください」 ウォルターの秘書であるジェシカは社長のすべての日程が詰まったタブレット型携帯端末を片手に、次の予定を伝える。 ウォルターは立ち上がり、スーツの上着を彼の秘書の手から受け取った。彼は、上着に袖を通すと、四方の壁のうちの一方を全面ガラス張りにした窓から外を眺めた。 そこには地球の首都とも言える、アースネイブルの街が広がっている。グランド・コロニーがその大半を占め、現代のような高層ビルの建ち並ぶ町並みとはまったく異なったものだが、この町並みしか知らない彼にとってはこれが町並みであり、これにはこれの趣があると思っていた。 グランドコロニーとは、高さが千メートルを超える超高層建築物で、その中が多重構造の街となっているものを言う。この中には約十万人の人々が住み、流通などはひとつのグランドコロニーの中で閉じているため、中に住んでいる人々は普通に暮らしている分には特に外部との行き来を考える必要がない。無論、グランド・コロニー間でも物流はあり、その集まりがひとつの市を形成している。 マクレイン・エアロスペース経営最高責任者でもある社長ウォルター・マクレインは、表情ひとつ変えず上着を翻すと、秘書を伴って部屋を出る。彼は逗留先であるホテルを後にすると、一路統合政府本部のあるグランドコロニー「アースネイブル」へと向かった。 ◆ フォーマルハウトは、あと小一時間ほどで月面基地フォン・ブラウンに到着する位置まできていた。 入港準備でにわかに艦内が慌ただしくなる。特に、補給を要請する立場にある部署では、補給物資のリストアップに全力を挙げていた。ドラグーン中隊でも、ラファラン機が損傷を受けるなど、予想以上の消耗があったため、マクレイン・エアロスペース社にも交換用部品、及び専用弾薬の発注が行われる。 「フランツ! 弾薬のリストはまだか!? 遅いぞ!」 フォーマルハウト搭乗第二一整備大隊所属第四整備中隊、通称「ドラグーン整備班」の長、ギリアン・マクレガー技術大尉の声が格納庫に飛ぶ。新米の整備兵フランツ・シュミット一等兵があわててクリップボードに必要事項を書き込んでギリアンの元まで持ってきた。 ギリアンはクリップボードを受け取るなりボードでフランツの頭を叩いた。 「馬鹿野郎。これじゃなんて書いてあるか読めねぇじゃねぇか! リストは他の奴らが読むんだってことを頭に入れて書けっていつも言ってるだろう!?」 「すっ、すいません! 昔から文字の書き取りは苦手で……」 いきなり頭を叩かれたフランツは、両手で頭を押さえながら弁解する。 「言い訳すんな。もう時間がない。いいから、こいつをジョルジュのところへ持っていって電子化してもらえ。お前がなんて書いたのか読み上げるんだぞ」 フランツはクリップボードを受け取ると、ジョルジュという名の同僚のところへ走っていく。溜息混じりにそれを見送るギリアン。 艦橋でも、入港に関する手続きと、補給の交渉が行われている。 「艦長、補給の日程は二日と向こうは言ってきていますが、どうしますか。もう少し急がせますか」 アレクシスはシルビアの目の前にあるコンソールを覗き込むようにして腰を折っていた体を起こすと、艦長シャオに振り返って尋ねる。シャオはにこやかに答えた。 「いえ、補給はできるだけゆっくりやるように伝えてください。乗組員にも寄航中できるだけ長い休暇をあげましょう」 「了解しました。しかし、その休暇の件なのですが、実は……」 アレクシス補給の日程に関しては了承したものの、最後に言葉を濁した。 フォーマルハウトは月面都市フォン・ブラウン市の直上にあった。市の大半は月面地下に存在するため、月面上からでは一部の施設しか見下ろすことはできないが、それでもそこから放たれる色とりどりの光は人の存在を感じさせるものがあった。 GUSF専用のハッチから入港を開始するフォーマルハウト。港のハッチは全部で十あり、一個艦隊を格納しても余りある。フォーマルハウトは、他の艦隊が駐留しているため、その中の九番ハッチに入港することになったのである。 全長五百メートルにも及ぶフォーマルハウトを水平にしたまま入港させることができるその巨大な穴は、ゆっくりと、ゆっくりとフォーマルハウトの巨体を飲み込んでいく。月面の、砂と岩の灰色の世界から、人工物とはっきり分かる鋼鉄の壁が船外光学カメラを通して艦橋要員の目に入ってくる。生物の存在しない月面世界からすると、こんな鉄の壁でも人の存在を認識し、安堵感を覚えるのは不思議な心地といえた。 穴の底に到達すると、フォーマルハウトは巨大な鉄の腕によって固定される。軍港ということもあって、鉄の腕はフォーマルハウトをソフトに受け止める、などといった芸当ができるようには作られてはいない。艦内には小さな揺れが走る。 フォーマルハウトが数々の鋼鉄の腕によって完全に固定されると、アレクシスはフォーマルハウトの心臓部であるメインエンジンの停止を指示する。 「機関停止」 「機関停止」 シルビア・コンウェイ上級軍曹の復唱にともなって、フォーマルハウトは艦内各所の電力をまかなうための主幹核融合炉のみを残してその巨体を休めるためにその機能を停止した。 「機関停止、確認」 艦長シャオ・ティエンリン大佐は、入港直前に各部隊長を通じて、停泊中の日程や補給に関する詳細を伝えておいたが、その顔に安堵感はなく、やや暗い表情で艦長席に深く腰を下ろし、襟に顎を埋めていた。 「ヴェルナー。ちょっといい?」 通路でヴェルナーを捕まえたミュリエルは、できるだけにこやかな表情を作ってヴェルナーに話しかけた。 「ああ?」 ヴェルナーが自分に気が付いて話を聞く体勢に入ると、彼女はすぐさま用件を切り出した。 「フォーマルハウトの補給に二日くらいかかるんだって。でね、その間休暇が出ることになったらしいのね」 「ああ、誰かがそんなこと言ってたな」 まったく惜しげもなくヴェルナーに笑みを見せるミュリエルにヴェルナーは少し嫌な予感を感じていた。ミュリエルがこんなに嬉しそうに話をする時は大体話の内容の相場は決まっている。 「だからさ、フォン・ブラウン市に遊びに行こうよ!」 予想通りだ。 ヴェルナーとミュリエルは戦闘航宙機操縦士養成課程の時からの知り合いだが、その頃から休みとなるとミュリエルはヴェルナーを引きずり出しては街へ繰り出していた。たまたま友人や他の候補生に会ったりするとヴェルナーが恋人を連れてきた、とからかわれるので、ヴェルナーはあまり気が進まないのだが、いつもミュリエルの押しに負けてしまう。しかしながら、それでもヴェルナーは今回も微力ながらも抵抗するのだ。 「い、いや、俺はまだ他にすることがあるから、また今度にしてくれないか?」 すると、ミュリエルの顔は、笑顔から急に眉根を寄せ、不満げな顔へと一変した。ころころ表情の変わるミュリエルを見ていると飽きないのだが、あまりにも解り易くて少し疲れるところもある、とヴェルナーは感じていた。 「することがあるなんて嘘。いつもそうやって逃げようとするんだから。もうヴェルナーの考えはお見通しよ」 ヴェルナーは背中に冷や汗を感じながらもミュリエルの視線から目を逸らせない。返事をできずにいると、ミュリエルから次の攻撃が飛んできた。 「……ふーん。リリアとは展望室で仲良くしてたのに、私とはイヤなんだ」 ミュリエルは目を細めて、私はなんでも知っているんだぞ、と言わんがばかりにヴェルナーの心を見透かすように冷たく言い放った。 「お前、あれ、見えてたの?」 「そっちからだって、私の機体見えたでしょ?」 返答に詰まって、口を動かすのが精一杯のヴェルナーだったが、ある一声で彼は救われることになる。 「お取り込み中のところ申し訳ないんですが、話があるので格納庫まで集まってくれませんか?」 マーリオンだった。通路を通りかかったところ、彼らに出くわしたのだ。艦内通信で呼びかけていたのだが、ヴェルナーとミュリエルはそれが聞こえていなかったようだ。二人は遅刻常習犯への道を着々と歩んでいた。 話の腰を折られたミュリエルは少し憮然とした顔で、ミュリエルの詰問攻撃から解放されたヴェルナーは安心したような顔でその命令を承服した。 「集まってもらったのは他でもありません。フォーマルハウトが寄港している間の休暇の件についてです」 療養のために召集に応じなくてもよい、という指示を受けていたラーニアとレティを除き、一列に並んだドラグーン中隊の面々。彼らは隊長であるマーリオンの手前、真剣な顔をして整列しているが、休暇の言葉が出ると、誰もが少なからず期待の念を抱いた。しかし、 「残念なお知らせです」 この一言によって、中隊員の期待は大きく揺らいだ。まさか、休暇は取り消しで、すぐさま出航とか? そんな疑心が走った。しかし、彼らの予想よりもずっと悪い知らせを聞かされることになる。 「フォーマルハウトは二日間このフォン・ブラウン基地にて補給を受けます。その間、みなさんには休暇が与えられるわけですが……、」 やはり休暇そのものは与えられるのか。隊員たちは一瞬安心するが、それでもマーリオンが〝残念な知らせ〟と称するからには続きがあるのは間違いない。 「……上層部の決定により、フォーマルハウト乗組員は基地外に出ることを禁止されます」 一瞬、間があった。 「納得できません! なぜ基地外に出てはいけないのか明確な理由を教えてください!」 この言葉に最初に反応したのは他でもない、ミュリエルだ。彼女は拳を握りしめてマーリオンに食ってかかる。マーリオンは必ず出るであろうこの質問に少し辛そうな顔をして小さく溜息をついてからミュリエルを見た。 「実は、協定世界時で昨夜遅く、フォン・ブラウン市長より統合政府に対して、市民感情を刺激したくないとの理由から、フォーマルハウト乗組員の市内への流入を控えさせるようにとの要請がありました」 マーリオンは、隊員を見渡してからさらに続けた。 「フォーマルハウトがフォン・ブラウンに来るという噂が市内に広がって、報道でフォーマルハウトが攻撃されたことを知った市民が入港に反対しだしたことが発端のようです。フォーマルハウトが戦闘の火種を一緒に持ってくることを恐れての反応だと思われます」 「なんで!? 私達は地球圏の平和を維持するために反乱軍と戦うんじゃないですか! それなのに、なんで疫病神扱いされないといけないんですか!?」 ミュリエルは、更に前に進んで反論する。今にもマーリオンに飛びかかりそうになる彼女を隣にいたルドミラが肩を掴んでそれを制止する。当然ながら、そんなことではミュリエルは引き下がったりはしない。マーリオンは、ルドミラに右の手の平を向け、ミュリエルに話を続けさせるように合図する。ルドミラはミュリエルの肩こそ放さないが、強制的に話をやめさせることはなかった。 「これは、GUSF上層部で承認済みの決定です。既にフォーマルハウト艦長であるシャオ・ティエンリン大佐宛に命令書も下ってきています……」 マーリオンは、申し訳なさそうな顔をしながらもミュリエルの痛烈な視線から目を逸らさない。隊員からの苦情は吸い上げるにしても、はねつけるにしても隊長がしっかり受け止めなければならない。ここで目をそらないのはマーリオンのけじめと言えた。 ルドミラに押さえつけられながらもマーリオンを睨み付けているミュリエルだったが、ルドミラの腕を振り払うと列に戻った。彼女はその後も怒りの表情を隠そうともしない。ひとまず早まった行動には出なかったので、中隊員達はほっとする。 「……私からは以上です。この二日間を有意義に過ごしてください。第一小隊は別の指示があるので、残ってください」 解散が指示されると、隊員達は銘々の方向に動き始める。そのほとんどがひとまず自室へ戻るようだった。全員、決して晴れやかな顔ではない。その中でもミュリエルは誰が見てもすぐにわかるほどの暗い顔で、その足取りも重い。ヴェルナーは彼女に何か声をかけようと思ったが、何を言っていいのか咄嗟には思いつかず、自分はその場に残るように指示されていたのもあってそのタイミングを逸してしまった。 帰り際、ルドミラは、部下のルイーゼ・フライスラー少尉を捕まえ、小声で指示を与えていた。 「フライスラー少尉、アンダーソン少尉が基地の外に飛び出さないように監視していろ」 「え~!? 監視ですかぁ? ルイーゼの休暇はどうなるんですかぁ?」 ルイーゼは、ルドミラの顔を見上げて少しも隠そうとせず、不満げな声を上げる。 「知らん。恨むならアンダーソンを恨め」 ルイーゼの抗議に対してもまったく表情を変えず、冷たく言い放つルドミラ。 「解ったのか、解らないのか、どっちなんだ!?」 ルイーゼには、ミュリエルが基地の外に出るとどんな問題が起きるのか想像しきれなかったが、自分の休暇がたった今なくなったことだけははっきりと解った。そして、不服そうな顔をして嫌々ながらもその指示を承服した。 「はぁ~い……わかりましたぁ……」 そして、ドラグーン中隊員が並んでいたマーリオンの前には、指示のあった第一小隊のクラリッサ、リリア、ヴェルナーだけが残った。 「第一小隊のみなさんには、更に申し訳ないお願いをしなければならないのですが、寄港中の待機任務をお願いします」 ヴェルナーは、小さく溜息をつく。先ほどミュリエルに口から出まかせで言ったことが本当になってしまった。どの道、基地の外には出られないので彼には何もすることはなかったのだが、さすがに待機任務でせっかくの休暇を棒に振るのは御免被りたかった。 いつもどおりのオーダーでは、待機任務は三十分待機が六時間、五分待機が四時間で、パイロット・スーツを着て一箇所に留まって拘束されるのは五分待機だけである。三十分待機の間はフォーマルハウトの艦内のどこかにいさえすれば通常の服装で、どこで何をしていても構わない。ただし、飲酒は厳禁である。ヴェルナー達が待機から外れている間や就寝している間はハンター中隊が順番に小隊ごとに待機任務を交代し、二十四時間四交代制で行われる。ここで言う五分や三十分という時間は、出撃命令があってから実際にフォーマルハウトから艦載機が発艦するまでの時間を指す。五分待機は別名スクランブル待機とも言う。 今はフォーマルハウトが港の底にいるので、発進できるようになるまで十分はかかる。したがって、今回は五分待機の代わりに十五分待機を六時間実施する。 五分待機の場合は、パイロット・スーツに着替えた状態で待機していなければならないが、パイロット・スーツはお世辞にも着心地の良いものではないため、四時間が我慢の限界である。彼らのドラグーンも常に自律航法装置がフォーマルハウトの位置を正確にアライメントした状態のままにされており、エンジンの核融合炉にも火が入れられていてすぐにでも最大出力が出せる状態になっている。また、MARIONシステムにも電源が投入されて休眠状態になっている。 十五分待機の場合は出撃命令があってから着替えても構わないし、着心地の悪いものを好んで長時間着ている者もいないため、普通はどのパイロットもそのようにする。ドラグーンも核融合炉以外は機能を停止させてある。しかし、行動に自由はなく、格納庫の一角にある待機用に割り当てられた部屋にいなければならないのは五分待機と同様である。 最初は十五分待機からだ。一旦自室に戻って簡単な身支度を整えてきた第一小隊の四人は、ドラグーンの搭乗甲板と同じ高さでつながっている待機室に集合していた。待機室には、格納庫側に大きな窓がひとつあり、公園のベンチほどの高さの三人掛けの簡素な長椅子が二脚と、それらに挟まれてコーヒー・テーブルが一脚ある。また、ダイニング・テーブルほどの大きさの丸い机が一脚、それを囲むように一人掛けの椅子が四脚並べられている。丸机から少し離れた天井付近には三十インチほどの大きさの有機ELモニターが吊るされている。また、部屋の片隅には情報端末がひとつ、飲み物の自動販売機が壁に埋め込まれるようにしてひとつ備え付けられており、待機任務者はいつでも利用することができる。ここの自動販売機に限り、パイロットとして登録されたIDカードがあれば無料である。食事は時間になると担当の兵士が運んでくる。 四人はそれぞれ飲み物を手にすると、ヴェルナーは一人掛けの椅子に腰を下ろし、備え付けのリモコンで天井のテレビの電源を入れる。クラリッサは情報端末の前に、マーリオンは自分のタブレット型携帯端末にダウンロードしてある雑誌を長椅子で開く。リリアはマーリオンと向かい側の椅子に座り、持ってきた携帯端末を操作して何かを書き込んでいる。待機任務中に何かが起きることは稀で、基本的に退屈な時間である。特に、フォーマルハウトが寄港している間は宇宙空間にいる時に比べれば奇襲に遭う可能性は更に低いと言えた。 最初は四人の間に特に会話もなく、静かな時間が流れていったが、小一時間もすると徐々に退屈になり始め、誰からともなくぽつりぽつりと会話が始まる。しかし、その会話は女性三人だけの会話であり、ヴェルナーはそれには混じってこなかった。彼は黙ってコーヒーを飲みながらテレビをただじっと見ている。 会話が途切れたところで三人ともヴェルナーの様子に気が付いた。最初に動いたのはクラリッサだった。彼女はコーヒーの入ったカップを持ってヴェルナーの隣の席にやってきた。彼女は空いている椅子の背もたれに手を掛けながらヴェルナーに尋ねる。 「ここ、いいかしら?」 知らない者同士ではないし、特に断る必要もないけどな、とヴェルナーは思いながらも、コーヒーのカップを口から離しつつ、 「どうぞ」 と短く答える。 クラリッサは、お下げ髪を背中に回しながら椅子に腰掛けた。 「ヴァイス君」 「ヴェルナーでいいですよ」 ヴェルナーはクラリッサの呼びかけに即座に反応する。 「じゃぁ、ヴェルナー君。アンダーソン少尉のことは気にならないの?」 再び口をつけたコーヒーを口に含む前にカップをテーブルに置くヴェルナー。 「確かに、ミュリィ……、アンダーソン少尉とは戦闘航宙機操縦士養成課程からの知り合いで、仲は悪くないですけど、俺が今気にしても仕方がないことなんじゃないですか?」 クラリッサは笑顔を浮かべたまま、ヴェルナーの瞳を真正面に捉えて、その真意を探るかのようにそのまま見つめている。ヴェルナーはその視線になんとなく気まずい心地がして視線を逸らしてテレビの画面に目をやる。クラリッサの瞳はミュリエルやリリアとは違った大人の女性の色気が漂っていて、それに戸惑って目のやり場に困ったのもあった。 「そう。もっと気にしてるかと思ったけど、案外冷たいのね」 テレビをぼんやりと見ながら、以前にミュリエルにも似たようなことを言われたな、と思い出すヴェルナー。 「俺に何かを期待してるのなら、それはお門違いってものですよ。ミュリエルに何かを教えたり、諭したりできるほど人生経験ないですしね」 ヴェルナーは、顔をテレビのほうを向けたまま、クラリッサを横目に見ながら気のない話し方をする。その様子に、クラリッサは笑顔から一転真顔になり、ヴェルナーのほうに向かって身を乗り出しながら頬杖を突く。 「別に説教しろだなんて言ってないわ。彼女、かなり興奮してたし、きっと一人になったら落ち込むだろうから、励ましてあげたらって言いたいだけよ」 ヴェルナーはクラリッサの提案に何も答えない。マーリオンとリリアも手元から目を離してヴェルナーとクラリッサのやり取りの推移を見守っている。ヴェルナーは、相変わらずテレビのほうを向いたままだったが、不意に彼の視界が彼のものでない手の平で覆われる。その手にそのまま右頬を引き寄せられ、更に左頬も別の手に押さえられて無理矢理クラリッサのほうを向かされる。 「人と話をする時は相手の目を見なさいって教わらなかった? 女ばっかりの部隊に配属になっちゃって、居心地悪い?」 ヴェルナーの頬に手を添えたまま話すクラリッサ。ヴェルナーは、少し冷たいクラリッサの手の平の感触を感じていた。母が自分に何かを言い聞かせる時にはいつもこうしていたな、とぼんやり思い出していたりもしたが、彼女の指摘はヴェルナーの図星を突いていた。今もこうして女性三人と決して広くない密室に同室していることも決して居心地がいいとは感じていなかった。 「そんなことはないですが……。フォーマルハウトの乗組員が全員女というわけではありませんし」 明らかにその場を取り繕っているかのようなヴェルナーの言葉に、彼の心境を察するかのように、苦笑いするクラリッサ。もし、フォーマルハウトの乗組員がこの部屋の四人だけだったら居心地が悪いと認めているようなものであることにヴェルナー自身は気が付いていなかった。 「意外に純情なのね。私が男だったら、大喜びだけどな」 ヴェルナーはクラリッサの視線から目をそらす。グデーリアンも似たようなことを言っていた。人の気も知らないで、と言いたい気持ちで一杯だった。 「それじゃぁねぇ、他の人に聞いちゃおうかな」 クラリッサは、ヴェルナーの頬から手を離し、振り返ってマーリオンに問いかける。 「隊長は、中隊に一人だけ男性が混じってて居心地、悪いですか?」 マーリオンは、膝の上あたりに持っていたココアの入ったカップをテーブルに置き、雑誌を閉じてから、微笑んで小さく首を横に振る。 「いいえ。私はもともと男性ばかりの航宙機部隊にいましたし。気になったことはありませんよ」 「アイスナー少尉は?」 次に聞かれるのは自分の番だとわかっていながら、どぎまぎしてしまうリリア。テーブルに置いていた飲みかけのミルクティーは既に冷めてしまっている。 「あ、いえ、私も全然気になりません。あの、中尉。私もリリアでいいです……」 二人の回答に満足そうな笑顔を浮かべ、体の向きを戻して再びヴェルナーの顔を見るクラリッサ。 「……だって! もちろん私も居心地悪いなんて感じたことは一度もないわ。意識しちゃってるのはヴェルナー君、あなただけみたいよ? むしろ、あなたがそうやって私達から距離を置こうとしてることのほうが気になるな」 ヴェルナーは、クラリッサが自分に気を遣ってくれていることに今ようやく気が付いた。しかし、なんと答えていいのか彼にはわからない。以後気をつけます、ではあまりにも堅苦しい答えだし、かと言ってクラリッサやグデーリアンの言うように大喜びするのも今からでは変だ。マクシミリアンのようにもっと気軽に女性と話せればいいのに、と女性が苦手な自分の性格を恨む。しかし、彼の頬は無意識に緩み、笑顔にはならないものの、緊張が少し解けて真一文字に結んでいた唇から力が抜けていた。それを読み取ったクラリッサは、満足そうに、オッケー、とヴェルナーの肩を軽く二回叩く。 会話が止まると、クラリッサはふとテレビを見上げる。ヴェルナーもつられてテレビに目を向ける。そこには、マクレイン・エアロスペース社の社長、ウォルター・マクレインのインタビュー映像が流れていた。ヴェルナーはテレビの映像の人物にはまったく興味がなかったが、その人物がマクレイン・エアロスペースの社長であることは知っていた。わずか二代で世界一の航宙機メーカーを作り上げ、世界経済を扱う雑誌で特集される『世界に影響を与える百人』のうちの一人に挙げられるほどの著名人だ。ウォルターが彼の父から会社を受け継いだ時にはまだほんの小さな、航宙機製造下請企業だったというから、実質的には彼が一代で築き上げた企業と言っても過言ではない。 「ヴェルナー君。いい機会だから、ちょっとでも他の隊員に興味が湧くように、衝撃的な事実を教えてあげようか?」 「え?」 不意に話を振られたので、ヴェルナーは反射的に聞き返す。クラリッサの世間話でもするかのような口ぶりでは、これから衝撃的な事実を話すようには思えなかったのもある。 「あそこに映ってる人ね、私の父なんだ」 クラリッサの横顔を見て彼女の言葉を待っていたヴェルナーは、驚いて再びテレビの映像を見遣る。マクレインは特別変わった名前ではなく、姓が一致しているのは別段珍しいことではないため気にしていなかったが、実の親子だとは想像もしていなかった。リリアも同様の反応を示すが、マーリオンはそのことを知っていたようで、テレビのウォルターの顔を見上げはするものの、特に驚いた様子はない。 「……と、いうことは、中尉は世界一の大企業の社長令嬢……?」 「世間一般にはそう呼ばれるわね。でも、その立場はもう捨てたわ」 ヴェルナーには理解できなかった。彼は、町の小さなパン屋の息子として生まれ、普通の生活を送っていたが、決して裕福とは言えない人生を送ってきた。別段、それに不満があったわけではなかったし、近所の悪友たちと散々馬鹿をやった学生時代も楽しかった。すべてが今となっては良い思い出だ。それらの経験は金銭には換えがたいものだとも思っていた。しかし、一流企業の社長の娘として生まれ、何不自由ない生活を送っていたはずの彼女が、規則に縛りつけられて個人の自由などない軍隊に入ったのか純粋に疑問に思った。 「なんで軍隊なんかに……」 「知りたい?」 全部言い終わる前に聞き返されたヴェルナーは何も言わなかったが、頷いて良いものか考えつつも遠慮がちに首を縦に振ってこれに応える。リリアも無意識のうちに身を乗り出している。クラリッサは、二人の反応に嬉しそうな顔をしつつも、瞳には少し寂しげな光をたたえていた。 「残念でした。今は内緒」 二人に肩透かしを食わせたクラリッサだったが、続きがあった。 「もし、私の部屋に一人で来られる勇気があったら、教えてあげる」 クラリッサは、一変して誘うような瞳でヴェルナーの瞳を見つめて再び、右手でヴェルナーの左頬をなでる。ヴェルナーは、その額にケトルを置いたら湯が沸かせるのではないかと思えるほど耳まで真っ赤になって硬直していた。今の彼にとって、それはTシャツ短パンで世界最高峰の登頂を目指すほどの無理難題だ。その様子をマーリオンは微笑みながら見ていたが、彼女は正面のリリアが、そんなに長い間ではなかったが、わずかに不安げな顔で床の一点を見つめていたのが少し気になった。 その後、待機が始まってから四時間ほど経つと兵卒が食事を運んできてくれたので、全員で卓を囲んで昼食を摂ることになった。ヴェルナーは最初座った場所でいいではないかと一度は抵抗してみたが、クラリッサのいかにも嬉しそうな、 「ダぁーメ♪」 の一言で押し切られた。訓練生時代にもミュリエルを正面や隣にして食堂で食事をしたことも何度もあったので女性と食事をするのが嫌なわけではない。しかし、三方を女性に囲まれるというのは彼にしてみれば異様な状況であり、抵抗があったのだ。女性三人にしてみれば室内のどちらのテーブルで食事をしても構わなかったのだが、ヴェルナーは同じテーブルを囲むことには観念したものの何故か丸机がいいと主張し、特に反対も出なかったのでそのようになった。 食事中もヴェルナーのぎこちなさは最後まで抜けなかったが、終始和やかな雰囲気で食事の時間は過ぎていった。しかし、彼らは気付いていなかった。待機室の窓付近の壁に人影があったことを。 ようやく退屈な十五分待機から開放された第一小隊の四人。既に三十分待機に移行しているので、彼らは艦内であれば自由に行動することができる。彼らが待機室を出ると、格納庫の中のどこかから歌声が聴こえてきた。 その時間はちょうどドラグーン整備班の休憩時間で、彼らは格納庫の片隅に車座になって一人の女性を取り囲んでいた。歌声の主はどうやらその女性のようだ。ヴェルナー達は足を止めると、デッキの手摺りに寄りかかり、その歌声に耳を傾けた。 「上手ですね」 マーリオンが誰ともなく感想を述べる。他の三人も同感だった。 その歌声の主、ドラグーン中隊第三小隊のルフィは、目を伏せ、歌の世界に没頭するかのように手振りを交えて伴奏もない中歌い続けていた。彼女の澄んだ歌声は伴奏がなくとも十分すぎるほどの美しさがあり、ヴェルナー達からの距離でもよく聞こえる通る声と幅広い声域も相まってむしろ伴奏さえ無用の長物に思えるほどだった。彼女が歌うのは、一昔前に流行ったラブ・ソングだった。OMDである彼女が恋心を理解できるのかどうかはわからなかったが、彼女の歌は整備兵達に十分な心の清涼を与えてくれていた。 一曲歌い終えると、整備兵達から拍手喝采や指笛が沸き起こる。ルフィは、はにかんでそれに応える。その拍手がやむかやまないかの頃に少し遅れてヴェルナー達も拍手を送った。その音が自分を取り囲むすぐ近くの整備兵からではなく遠くから聞こえるので、ルフィは拍手の音を追ってデッキの上を見上げた。 「ねぇ! あなたうちの部隊のルフィでしょ? 『Your love is just mine』っていう曲、知ってたら歌って!」 大きな声で次の歌のリクエストを出したのはクラリッサだった。彼女のリクエストした曲は、ルフィが歌っていたものよりも更に古い。気が強く、男性が余所見をすることなど絶対に許さない、恋愛も自分の意思で自在にならないと気が済まない女性を題材にしたものだった。ヴェルナーはその曲を歌えるほどには知らなかったが、タイトルを聞くだけでもなんとなくクラリッサの恋愛観がわかる選曲のように思えた。最近の流行歌ではないことから、よほどその曲が好きと見える。 しかし、ルフィは首を横に振っている。クラリッサは期待が外れて少し残念そうだったが、再び笑顔でルフィに話しかけた。 「そう! じゃぁ、今度私のディスク貸してあげるわ!」 「ありがとうございます!」 ルフィは、両手でメガホンを作ってクラリッサに応え、そして手を振る。ヴェルナー達もルフィに手を振りながら格納庫を後にした。 格納庫を出て間もなく、マーリオンとクラリッサの後ろを歩いていたヴェルナーがふと口を開いた。 「あの、俺、ちょっと用事があるんで、失礼します」 マーリオンとクラリッサがヴェルナーのほうを振り返ったが、特に止めはしなかったので、ヴェルナーはそのまま通路が交差する場所で別の方向へ早足に歩いていった。 その様子を見ていたリリアは、 「ヴェルナーさん、まだ居づらいんでしょうか……」 と独り言のように呟くが、その言葉を聞いたクラリッサは、リリアを横目に捉え、 「違うわよ。彼にもできることがあるって気づいたのよ。大進歩よ」 と小さく笑う。 三人はヴェルナーの背中が向こうの角に消えるのを見送っていたが、クラリッサは突然マーリオンとリリアの肩を抱き寄せ、彼女らの顔を自分の顔の左右に引き寄せて低い声で囁いた。 「ところで二人とも、ちょっといい?」 数分後、ヴェルナーはフォーマルハウトの居住区画にあるミュリエルの部屋の前に来ていた。ノックしようと手の甲をドアに向けるが、なかなか叩かない。手を下ろしたり、また手を上げたりする動作を何度も繰り返す。彼女が出てきたらなんて話そう、彼女を励ますなんて自分にできるのだろうか、そんなことが彼の頭の中をぐるぐると巡っていた。 ミュリエルの部屋の前に来てから、たっぷり十分は経って、彼はようやくドアをノックした。その間に彼の後ろを怪訝な顔をして通り過ぎていった乗組員が何人いたか知れない。彼は人が通るたびに手を下ろし、通り過ぎるのをじっと待っていたのだ。 ようやく勇気を出してノックはしてみたものの、返事がない。何度かノックを繰り返してみるが、やはり結果は同じだった。艦内通信機にも応答がない。自分の意思でここまで来てはみたものの、こちらの呼びかけに応じてくれないことに肩透かしを食らったように思えた反面、内心、少しほっとしたような気持ちがした。しかしそれと同時に、彼の胸中には別の不安が頭をもたげつつあった。 「いないのか……。まさかとは思うが……」 ヴェルナーが諦めて立ち去ろうとして体の向きを変えると、通路の角からこちらの様子をうかがっている二人の女性の顔が目に入った。二人はヴェルナーがこちらを見ているのに気が付くと慌てて陰に顔を引っ込める。 「何をしてるんですか、中尉? リリア?」 ヴェルナーは角の向こうに聞こえるような大きな、そして少し怒ったような声で、角の向こうにいる二人に話しかける。程なくして、クラリッサとリリアがばつの悪そうな顔をして出てきた。 「どうしても気になっちゃってね。いつもの様子だと、下手すると喧嘩になっちゃうかもって心配で。一応、援軍のつもりだったのよ?」 「ご、ごめんなさい、ヴェルナーさん……」 クラリッサは、頭の後ろに手を当てて言い訳をし、リリアは申し訳なさそうに上目遣いにヴェルナーを見ている。ヴェルナーは、後ろ頭を掻きながら、 「……まぁ、いいですよ。とりあえず、ミュリエルは今、部屋にいないみたいですし。また後で来ますよ」 と二人がいる角のほうへ向かって歩いていく。クラリッサとリリアの脇をちょうど通り過ぎたところで角の陰に別の誰かがいるのに気が付いて無意識にそちらに目を向ける。 「隊長まで……」 そこにいたのは、マーリオンだった。彼女は壁を背中にして小さくなって恐縮していた。眼鏡の奥から、リリアと同じようにばつの悪そうな視線をヴェルナーに向けている。 「す、すいません……。私も気になって……。マクレイン中尉に誘われて……」 その言葉を聞いたクラリッサが、腰に手を当ててヴェルナーの肩越しに角の向こうから反論する。 「あ、隊長。私のせいするなんて、ひどくないですか? 隊長の立場上、なんて言ってたのは誰でしたっけ?」 最後の一言に、マーリオンは慌てて手を振って否定する。 「わ、私そんなこと言ってませんよ? 私は後で結果だけ聞けばいいって言ったのに、私とアイスナー少尉の腕を掴んで連れてきたのはマクレイン中尉……」 徐々に、いつ結論が出るとも知れない、しかしひどくどうでもいい責任のなすりあいになってきたので、ヴェルナーは溜息をついてマーリオンの言葉を遮った。 「もういいです、わかりました。ここまで来てたら全員同罪。覗きの罰として、三人とも俺の晩飯に一品ずつ自費でおごること。いいですね?」 「はぁい」 「はい……」 「わかりました……」 仕方なく返事をする三人だったが、つまりそれは三人一緒に夕食に付き合えという意味であることはすぐに理解し、ヴェルナーなりに少しでも彼女らとの距離を縮めようと努力していることに安心するのだった。もっとも、これも先ほどクラリッサがとっさに考えた作戦だったことをヴェルナー本人は知る由もなかった。 それから数時間の後、ミュリエルは艦内の通路を一人、とぼとぼと歩いていた。目的もなくただ足の向くままに歩いていたつもりだったが、ふと気が付くと、フォーマルハウトにいくつかある乗降ハッチのうちのひとつの前まで来ていた。ハッチは開放され、軍港施設からの作業用デッキが接続されている。その向こうに軍港への入口が見えていた。既に補給作業は始まっており、フォークリフトや補給資材を運ぶトラック、作業員がせわしなく動き回っている。 ミュリエルは、そのまま軍港の入口を見つめていた。本当なら、彼女の計画では今頃あの入口をくぐって基地内へ、その基地内からフォン・ブラウン市街へと繰り出していたはずだったのだ。 デッキへ一歩足を踏み出そうとしたその時、ミュリエルはいきなり後ろから腕を掴まれた。 「ミュリィちゃん! 外へ出ちゃダメです!」 驚いて振り向いたミュリエルの眼には慌てたルイーゼの顔が映っていた。ミュリエルは、小さく笑うと、ルイーゼがどうしてここにいるのかと問う代わりに、 「アーヴェン中尉に私を監視しろって言われたの?」 とその理由を言い当ててみせる。 いきなり図星を突かれたルイーゼは思わず黙り込んでしまう。 「……大丈夫よ。基地までは出てもいいんでしょ?」 寂しげな笑顔をルイーゼに向け、自分の腕を掴んでいるルイーゼの手を解くミュリエル。ルイーゼは、手を放したらミュリエルがそのまま走り出して行ってしまうのではないかと不安になり、解かれた手を前に出したままミュリエルの顔を見ていた、 「なんや、そこにいるのはアンダーソンやないけ」 二人は横から声をかけてきた通りすがりの男の顔を見上げた。 「あ……、大尉……」 そこにいたのは、マクシミリアン・マクスウェル大尉である。 「扉の前に突っ立って、どこへ行くつもりやったんや?」 ミュリエルからすぐに返事が返ってこなかった。 マクシミリアンは、思いつく限り外出の目的になりそうな娯楽をジェスチャーで表現してみせた。基地内のプールバーでのビリヤードにダーツ、酒場での飲酒、スポーツ、読書などなど。しかし、ミュリエルはそのどれにも反応を示さなかった。 「……別に、行くあてなんかないです。街へは出られないんだから」 先ほどからの寂しげな顔に、憮然とした表情を混ぜ込んでそっぽを向くミュリエル。それを見て、マクシミリアンは吹き出したかと思うと、急に大笑いしだした。 「なんや! 何かと思えば! 基地の外へ出られへんから拗ねとったんか!」 マクシミリアンの大笑いは止まらない。ミュリエルは、初めてマクシミリアンのほうへ体を向け、一歩前に出て言い返す。 「な……!? そんなに笑うことないじゃないですか!」 「いやいや、悪い悪い。せやけど、そないなことで拗ねるなんて、思ったよりも自分、子供やなぁ」 「違う……。違うんです。そんなことだけなら、私、拗ねたりしません」 唇を噛んで、足元を見つめるミュリエル。その様子を見て、にやついていたマクシミリアンの顔が、急に引き締まった。ほんの数秒、彼はミュリエルの顔を見ていたが、いつものにやついた、締まりのない顔に戻ると、立てた親指をハッチの外に向け、ミュリエルとルイーゼの二人にこう言った。 「自分ら、これから何もすることのうて暇なんやろ? おごるで?」 GUSFフォン・ブラウン基地は、月面都市に隣接して存在するため、防衛上の理由などからも、その機能の大半を地下に置いている。 軍事的に重要な施設は鋼鉄の壁に覆われたいかにもという区画に存在するのだが、娯楽施設などが存在する区画には柱も壁もない広いスペースがとられ、足下には本物の芝が植えられている。天井には市街に設置されているものと同じ機構を持った天球プロジェクタが設置されており、時間や天候によってその空模様が変わる。天球プロジェクタはカオス理論によって制御されており、同じ晴天でも毎日同じ晴れ模様になるわけではないように考慮されて設計されている。 芝の間を煉瓦が敷き詰められた小道が縦横に走り、娯楽施設や食堂をお互いにつないでいる。もっとも、娯楽施設といっても、その数も規模も市街のそれに比べるべくもなく、あくまで軍事施設の一部という性質上、華やかさはほとんどないと言えた。しかし協定世界時と同刻になるように調整された月面都市時間で夜になる今の時間帯では、それでも小道の脇のそこかしこに立てられている街灯には灯がともされ、どちらかといえば殺風景とも言える静かなたたずまいに一花添えていた。 その一角にバーがある。二十世紀ごろのものからほとんど変わらない内装を施されたその酒場はいつの時代も大人達が心の洗濯をするための、憩いの場となっていた。 協定世界時で夜七時。月面都市の時刻は地球のそれに合わせられているため、月面上が夜でも月面都市では昼ということがある。もっとも、月の夜は半月もあるので、これに合わせていたら人間は生活できない。 一人の女性がバーのドアを押し開ける。扉に取り付けられたベルが鳴り、カウンターの中にいたバーテンダーが来客に向けて短い歓迎の言葉を述べる。バーの中には古くから愛されているジャズの心地よい旋律が流れており、大人の時間を演出していた。まだ宵の口だったため、ほとんどの席は空いていたが、彼女は店内を何気なく見回す。そして、カウンターに並んでグラスを傾けている見覚えのある三人を見つけると、そちらに足を向けつつ口を開いた。 「珍しい取り合わせですわね、マックス?」 そう言いながら女性はマクシミリアンの隣りの席を占め、ブランデーを注文する。マクシミリアンを中心としてその女性とは反対側の隣にミュリエル、更にその向こうの席にルイーゼが座っていた。 「おう。ヴェルカやないか。今、人生相談中なんや」 マクシミリアンは、隣に座った人物を横目に見ながら応えた。ヴェルカ・ユージン大尉は、彼の言葉に目を丸くして、 「まぁ、貴方が人生相談ですって? 世も末ですわね」 と大袈裟に驚いてみせる。ヴェルカの言葉に、 「のっけからきっついわぁ」 と笑うマクシミリアン。しかし、彼はすぐに話の本題に戻る。 「で……さっきはどないしたんや? 街へ出られへんちゅうことだけやない言うとったな?」 ミュリエルは、マックスウェルの質問に答える代わりに、 「……その前にひとつ聞いていいですか?」 と質問を挟む。マックスウェルも話には順番があるだろうと思い、 「ええでぇ。なんでも聞いてや」 と話を急がず快く質問を受け付ける。 ミュリエルは、ウイスキーの水割りが入ったグラスを見つめながら話し出す。 「私達って何なんですか? 何も悪いことしてないのに、到着するなり邪魔者扱いってひどくないですか?」 マクシミリアンもヴェルカも、それに関して納得はしていなかった。いくらフォーマルハウトが反乱の渦中にあるからと言って締め出しを食らう謂われはない。治安維持のために戦っているのだから、むしろ歓迎されても良さそうなものだ。しかし、月面都市の住人は、俗に〝月面根性〟と呼ばれる考え方を根底を持っており、地球やその近傍で起こっている出来事は月の自分たちには関係のないことだと決めつける傾向がある。そのため、フォーマルハウトのような軍艦の入港を拒んだり、GUSFに対して非協力的な行動に出たりすることがしばしばある。 「確かに、平和を維持するために戦っているのに、市民に疎まれるのは辛いですわね」 ヴェルカがマクシミリアンが答える前に口を開いた。 「でも、それは市民が平和に慣れているっていうことではなくて? と、すれば、私達のやってきたことは実になっていた、ということではありませんこと?」 ミュリエルはつまみに出ていたマカダミア・ナッツを口に運ぼうとした手を止めて、ヴェルカの顔を見ずに独り言のように呟く。 「……平和に慣れているですって? 三年前にも反乱があったばかりなのに?」 ヴェルカはブランデーを一口飲んでからそれに答える。 「少なくとも、バグダッド内乱は月の人にとってはほとんど対岸の火事だったはずですわ」 「そんなの、たまたまの話じゃないですか。月にだっていつ反乱が起きてもおかしくないくらいの危機感を持っていてくれないと、いざという時に、今みたいに困るじゃない!」 テーブルの上に置いていた両手を握りしめてやや語気が荒くなるミュリエル。 「私達は道端の小石じゃないのよ。蹴っても投げても文句も言わない石ころじゃないのよ!」 ミュリエルは上半身をヴェルカの方へ向け、先ほどまでグラスを持っていた手を離し、その手をカウンターの上で振って自分の言葉を強調した。 「あなたはまだ軍に入ってから日も浅いから仕方ないのかも知れませんけど、私達は路傍の石ですわ。蹴られても、投げられて水に沈められても、文句を言ってはいけない。それが治安維持部隊であるGUSFの本当の姿ですわ」 ミュリエルは、グラスを煽って水割りを一気に飲み干し、 「あんまり無茶な飲み方せんほうがええで」 と口を挟むマクシミリアンを無視して顔にかかった髪の毛も気にせずヴェルカに食ってかかった。 「仮にそうだとしても、月面都市の市民がGUSFに協力しないことの理由になんかならない。自分達に火の粉がかかるのが嫌だからって軍隊を追い出すなんて、じゃぁ自分達の身は自分達で守れるって言うの? 一個艦隊もあれば、いえ、ドラグーンが三、四機もあれば月面都市なんか、五分で瓦礫の山よ」 空になったグラスをバーテンダーの方へ突き出すミュリエル。 グラスが引っ込められ、おかわりの水割りのグラスが出てくると、またしてもミュリエルはその半分ほどを一気に胃へ流し込んだ。 今の彼女の指摘には一部誤りがある。市民は確かにフォーマルハウトの入港を拒んでいるが、フォン・ブラウン市長は乗組員の市街への流入を控えさせるように要請しただけで、入港そのものや補給に関しては一切拒否していない。市長も現在の状況をよく把握しており、最初からできる限りの協力をするつもりだった。また、フォーマルハウトの乗組員が市街に出ることで予期せぬ混乱や事件が起きることを最大の懸念としており、基地の外に出ないほうが乗組員の安全を確保する上でも最も良い方法だという考えも含まれていた。ヴェルカもマクシミリアンもすぐにこの誤りには気づき、ミュリエルの視野がすっかり狭くなっているのを感じていたが、あえてこの誤りを訂正しなかった。 「言葉が過ぎるようですわね、アンダーソン少尉。基地内でしたからまだ良いですけれど、それを基地の外で言ってご覧なさい。大変なことになりますわよ」 酒の勢いに乗って言葉が熱っぽくなってくるミュリエルに対しても、あくまで冷静なヴェルカ。しかし、ミュリエルは自分をたしなめたヴェルカを無視してマクシミリアンの顔を見る。 「マクスウェル大尉はどう思います?」 マクシミリアンは、自分の顔を自分で指差して、俺か? という顔をすると、ミュリエルの問いに答えた。 「せやなぁ。アンダーソンの言いたいことはよぉっく分かるで。こんな陳腐な月面都市、わいらが本気になればいつでもぶっ壊せんやからな」 「ちょっと、マックス!? そこで貴方が同意してどうするんですの?」 ヴェルカは慌ててマクシミリアンの言葉を訂正させようとする。しかし、マクシミリアンは悪びれた様子もなく、いつもの調子で言う。 「ええやないか。わいもアンダーソンと同じ気持ちやっちゅうの本心やで。ヴェルカはここが街やったら言うたけど、ここは軍事施設なんや。逆を言えば、ここでなら何言うてもええやないか。人間たまにはガス抜きせんとパンクしてまうで」 ヴェルカは次の言葉を継ごうとするが、マクシミリアンにそれを遮られた。 「フォーマルハウトの乗組員がフォン・ブラウン市から締め出しを食らったのが気に入らんのはようわかった。せやけど、自分、別の理由があるて言うとったやないか。そっちのほうもそろそろ気になるんやけどなぁ」 ヴェルカは、最初から三人と一緒にいたわけではないので、当初のいきさつを知らない。マクシミリアンは、おそらく今は表面上の不満を口にしているだけのミュリエルの本心を聞きだすために、それが正しいかどうかは別にして、あえてミュリエルの話には反論しなかったのだ。彼女は、マクシミリアンの意図を読んで、締め出し云々の話は続けないことにした。 しかし、ミュリエルからの反応はマクシミリアンの予想と少し違っていた。 「……言いたくありません」 ミュリエルは自分の手元で揺らめく水割りを見つめたまま、苛立たしそうに答える。マクシミリアンはその言葉にカウンターの上に身を乗り出し、ミュリエルの顔を覗き込む。 「おいおい、そりゃないで?」 「別に、全部話すなんて約束した覚えはありませんから」 上官に対して無礼な物言いをするミュリエルにヴェルカは何か言おうとしたが、マクシミリアンに制止された。言いたくないなら無理に言わせなくてもいい、そう言っているかのようだった。 その後、マクシミリアンとヴェルカは、ミュリエルがそのうち気が変わって何か話してくれる気になるかもしれないと小一時間ほど辛抱強く待ってみたが、当の本人がすっかり酔っ払って呂律が回らなくなり、何を言っているのかわかりにくくなってきた。マクシミリアンは溜息をつきつつカードで会計を済ませると、席を立った。結局、ミュリエルは最後まで自分自身で言っていた〝別の理由〟を話さなかった。 まだ明るいうちから飲んでいた四人がバーの外に出ると、外はすっかり夜になっていた。本人の、酔ってない、という主張をよそに、マクシミリアンが足取りのおぼつかないミュリエルを送っていくようにルイーゼに頼んでいると、ちょうどヴェルナー、マーリオン、クラリッサ、リリアの四人組に出くわした。彼らは三十分待機が何事もなく過ぎたので、基地内で外部委託業者が運営している食堂で食事をしてきたところだった。フォーマルハウトの艦内食堂や基地の隊員食堂は基本的に無料なので、そもそも〝奢る〟ということができない。そのため、下船してわざわざ有料の食堂へ赴いていたのだ。 ミュリエルは彼らを見つけ、しばらく四人の顔を見渡していたが、声をかけられる前に突然あらん限りの大声でそちらの集団のほうへ怒鳴った。 「ヴェルナーの、馬鹿ぁっ!!」 言うなりミュリエルは体を翻してフォーマルハウトのほうへ早足で歩き出した。時々ふらついて道端に倒れそうになるのを見てルイーゼが慌てて追いかける。前置きもなくいきなり罵倒されたヴェルナーも、とにかく事情を聞こうと彼女を追いかけ、ミュリエルのほうへ手を伸ばし、 「どうしたんだ、ミュリィ。俺が何か悪いことしたか?」 と後ろから声をかける。ミュリエルは彼のほうへ頭だけ振り向きはしたものの、その質問には答えようともせず、 「こっち来ないでよ! あっちへ行って! それ以上近付いたら、引っぱたくからね!」 とすげなくヴェルナーを遠ざけた。 取り付く島もないヴェルナーは、そこで立ち止まり、前に差し出した手をそのままに、ミュリエルとルイーゼの背中を見送りながらただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。 その様子を見たマクシミリアンは、なるほどね、という顔をして横のヴェルカに目配せをする。ヴェルカも得心のいった表情をしながら隣の同僚の視線を捉えて頷いていた。 バーの前での出来事が気になったヴェルナーは、再びミュリエルの部屋を訪れていた。念のため、近くにクラリッサ達がいないことを確認すると、今度は躊躇なくドアをノックした。 「俺だけど。ベルンハルトだけど、いるか?」 しばらく待ったが、中から返事がない。相当酔っていたようだから、そのまま酔いつぶれて寝てしまったのだろうかと考えていると、ドアが開く代わりに艦内通信機が鳴った。スピーカーからなんとか聞き取れるか聞き取れないかの、辛そうなミュリエルの声が聞こえる。 『……何の用? ……今、酔ってて頭痛いから……手短にしてくれる?』 「辛いところすまない。さっき、なんで怒ってたんだ?」 ヴェルナーには聞きたいことがいくつかあったが、最も気になることだけミュリエルの言う通りに手短に伝えた。しかし、しばらく経っても彼女からの返事がない。どうしたのかと思って再度口を開きかけた時、遅れた返事が返ってきた。今度の声は先ほどよりも苛立ちの色を感じる。 『……わからないの?』 「すまん。本当に心当たりがない。教えてくれないか?」 再び彼女を怒らせまいと下手な取り繕いはせず、正直に答えるヴェルナーだったが、 『……帰ってよ。ヴェルナーとなんて話したくない!』 とミュリエルは結局怒り出してしまった。 「ちょ、ちょっと待て、ミュリィ……!」 ヴェルナーは、ドアの前で何度もミュリエルに呼びかけたが、ついに返事は帰ってこなかった。頭痛がするという彼女が辛いだろうと思い、ドアを強く叩いたりはしなかったが、彼はますますわけがわからず、腑に落ちない顔で頭を掻きつつその場を後にする。 不意にドアの向こうからヴェルナーの声が聞こえなくなったので、ミュリエルはベッドから出て乱れた髪を手櫛で雑に整えると、頭痛のする額に手を当てて壁を伝うようにしてスイッチを探す。前のめりになりながら部屋のドアを開けると、髪留めのゴムを外したミュリエルの豊かな長い髪が前に流れ、彼女の顔の半分ほどを覆う。髪の毛の隙間から見えるドアの前には誰もいない。ドアから顔を出して通路の左右を見渡してみたが、やはりヴェルナーの姿はなかった。 「……本当に馬鹿……」 その声は、等間隔に備え付けられた無機質な白い照明に照らされた、誰もいない長い通路に吸い込まれていった。 次の日の朝。基地から街へ向かうゲートの守衛所で、歩哨の一等兵は右肩に自動小銃をかけたままあくびをしていた。 フォーマルハウトの乗組員が基地外へ出ることを禁止されているので、基地への出入りはいつもと変わらない。たまに基地内の食堂などに食料品を納めにやって来た業者のトラックや、基地外から通勤してくる食堂の民間従業員の車が通るくらいのもので、内乱発生中とは言え、平和なものだった。 異常に気が付いたのは同僚の兵長だった。基地内から猛然と走ってくる一台の車が目に入ったのである。 「お、おい! あの車、速度が速すぎないか!? 門を閉めろ!」 慌てて門を閉めようとする一等兵。警報が鳴りだし、ゲートは機械的な仕組みによって自動的に横へスライドし始める。兵長はゲートの中央付近に立って手に持っていた自動小銃を車の方に向け、車を止めようとする。 「止まれ! 止まらんと撃つぞ!」 その声が聞こえているのかいないのか、車は止まるどころかエンジンの唸りが甲高くなり、その速度はますます上がってくる。危険を感じた兵長は引き金を引く前に横へ飛んで逃げる。門は間一髪のところで間に合わず、車を取り逃がしてしまった。 一等兵はすぐさま守衛所の壁に取り付けられている内線電話の受話器を取り上げると、基地指令本部への短縮ダイヤルのボタンを叩いた。 「本部! こちら正面ゲート守衛所! 高機動車と思われる車両一台がゲートを突破し、市街方面へ逃走! 大至急、緊急配備願います! 搭乗者は女性兵の模様でありますが、委細不明!」 ◆ 早朝、正面ゲートを突破し、脱走したという女性兵の話は瞬く間に基地内に広まった。それはフォーマルハウト乗組員も例外ではなく、昨晩当直だった乗組員を中心にして噂は広がっていった。 いつものようにベッドから跳ね起きると点呼場所になるドラグーン格納庫に向かうヴェルナー。途中からリリアがそれに追いついてくる。 「おはよう、リリア」 リリアの顔をちらりと見ただけであとは正面を見据えて挨拶だけ簡単に済ませるヴェルナー。 「……おはようございます」 ヴェルナーの顔を見上げるリリアはその表情を見て、あの後ミュリエルと話せたのかな、と思う。昨夜、食事からフォーマルハウトに戻ったヴェルナーは、艦内に入ると挨拶もそこそこに居住ブロックのほうへ走っていったのだ。三人ともまたミュリエルの部屋に行ったのだな、と直感的に理解したが、今度は後を尾けたりはしなかった。 「なぁ、リリア」 急に話しかけてきたヴェルナーに驚くリリア。 「はい?」 「……基地内だけって言っても、ちょっとした遊戯施設くらいあるよな」 唐突に妙なことを聞かれたので、リリアは、 「……あるって聞きましたよ?」 となぜそんなことを聞くのかと問い返すように応える。 「……今夜あたり、行ってみないか?」 そういう流れになるとは思ってもみなかったので、驚いてヴェルナーの顔を見上げるリリア。ヴェルナーは前を見たままリリアの顔を見てはいない。目を見ず、あまりにもヴェルナーがさらりと言ってのけたので、自分だけに言った言葉でないのかもしれない、その言葉には他にどんな意味があるのだろう、と様々な推測が頭の中を占めて返答に困った。すると、ヴェルナーがその後を続けた。 「基地の外に出られなくなって、ミュリィがあんな状態だろ。俺達で少しでも気を紛らわせてやろうと思ってな……」 彼は提案に対する是非の返答をリリアに期待していなかった。リリアはその言葉を聞いて足下を見つめて小さく溜息をついた。 (何勝手に勘違いしてるのよ、昨夜ミュリエルのところに大急ぎで行ったのを考えれば解るじゃない) 彼女は、恥ずかしさまぎれに右の拳でこめかみの辺りを小突く。 「あいつ、月に降りられるのを楽しみにしてたからな。……どうした?」 「い、いえ、なんでもないです……。そうですね。ミュリィ、きっと喜びますよ」 作り笑いをするリリア。 「そういうことなら、私も混ぜてくれない?」 驚いて二人が振り返ると、二人に割り込むようにして、クラリッサ・マクレイン中尉が顔を出している。両腕はヴェルナーの左腕とリリアの右腕に回されている。 「ちゅ、中尉!?」 「だって、私も後ろにいるのに、まるっきり無視するんだもの。私ね、今晩も暇なのよ」 上目遣いでヴェルナーを見上げるクラリッサ。知的な瞳の中に秘めたほのかな色気と、左腕に回された彼女の腕の感触がヴェルナーを襲う。一瞬戸惑ってヴェルナーの返事が遅れると、クラリッサはくすりと笑い、 「それとも、お邪魔かしら?」 とヴェルナーの顔を覗き込む。 「い、いえ、そんな。賑やかな方が、ミュリエルも気が紛れますよ」 ヴェルナーが慌てて答えたその時、すれ違った下士官の話し声が耳に入った。 「おい。脱走兵だってよ!」 「女だって?」 脚を止めて振り返るヴェルナー達三人。ヴェルナーはそのまま通路を去っていく下士官を追いかけて前に回り込み、手荒に襟を掴む。 「おい! 今なんて言った!? もう一度言ってみろ!」 下士官は何事かと驚いたような表情だったが、ヴェルナーが上官だと分かると、苦しそうな顔をしながらもヴェルナーの質問に答えた。 「け、今朝早く、だ、脱走兵が出たって……」 「誰だ! 誰が脱走した!?」 「そ、そこまでは……。ただ、女だってことだけ……」 ヴェルナーはそこまで聞くと呆然として下士官の襟を放す。そして、今の話は聞き間違いではなかっただろうかと、確認するようにリリアとクラリッサの方を見た。リリアは不安げな瞳をこちらに向け、クラリッサは目を伏せている。 「まさか……、お前じゃないよな……。ミュリィ……」 格納庫に着いた三人は息を弾ませながら集合場所へ走っていく。既に先に来ている隊員の隣に並び、ヴェルナーはまだ荒い息を整えるのもそこそこに隣の第二小隊長ラーニア・ローアス大尉に話しかけた。 「ミュリィは!? アンダーソン少尉は来てますか!?」 「まだ来てないのよ。まさかとは思うけど……」 ラーニアは厳しい表情を崩さずに格納庫の出入口の方を見ている。しかし、そこにミュリエルの姿はない。 やがて、列の前に立って中隊員が整列するのを待っていたマーリオンが手に持った士官用携帯端末を胸の高さに持ち上げた。点呼開始の合図だ。相変わらずミュリエルが立っているはずの場所はぽつんと間が空いている。 (悪い予感的中か……!) 奥歯を噛み締めるヴェルナー。リリアも直立の姿勢ではあるものの、沈んだ表情で点呼を待つ。他の中隊員にも少なからず表情に陰りが見られる。しかし、その中でもクラリッサやヴェルカ、ルドミラはいつも通りのクールな表情を見せていた。 「第三三戦闘攻撃航宙部隊、点呼をとります」 普段なら、これから第一小隊から順に隊員の名前を読み上げるところだが、マーリオンの口からは今日に限って順番とは違う名前が出た。 「……ミュリエル・アンダーソン少尉がいないようですが?」 誰ともなく質問を投げかけたので、誰からも返事がない。マーリオンは昨晩のミュリエルの部屋の前での出来事を知らない。 「アーヴェン中尉、ミュリエル・アンダーソン少尉はどうしましたか?」 「行方不明であります」 この問いにルドミラ・アーヴェン中尉は即答した。マーリオンはその答えを聞いて、やっぱりか、という表情を見せた。 「わかりました。行方不明……ということで良いのですね? 念を押しますが、昨夜はだいぶ酔っていたようですから、まだ寝ているということはありませんか?」 「いえ、居室を確認しましたが少尉はいませんでした。申し訳ありません少佐」 直立不動のまま恐縮するルドミラだが、マーリオンは彼女を責めることもなく、小さく溜息をつく。 「昨夜、アンダーソン少尉をバーの前で見かけましたが……」 ぎくりとして体を硬くするルイーゼ。ルドミラからミュリエルの監視を仰せつかっていたが、さすがに深夜から早朝にかけての時間帯に起こった出来事までは監視できない。ルドミラもそこまでは要求していなかったようで、それについて特に責められることはなかったが、バーで一緒にいたことは間違いない事実だ。彼女は、おずおずと右手を持ち上げかけたが、 「少佐、昨晩はバーで我々が彼女と一緒におりましたわ」 というヴェルカの声に驚いて彼女を見るルイーゼ。 「ユージン大尉、アンダーソン少尉に変わったところはありませんでしたか?」 「休暇に伴う基地外への外出を禁じられたことで相当精神的に不安定ではありましたわ」 「他には?」 「隊員間の人間関係と言いましょうか。その辺りでも少し神経質になっていた面もあったようですわね」 実際のところ、ヴェルカも本人の口からは明確な話を何も聞いていなかったため、単なる推測による名指しは避けた。マーリオンはヴェルカからの報告をペン型のポインティング・デバイスで逐一端末に記録していく。 短い沈黙があった。その間、端末から聞こえる電子音とペンを走らせる音の他は何も聞こえない。ヴェルナーはミュリエルがヴェルカに何を話したのかは当然知らないが、昨夜あれだけ怒っていたのを見れば、隊内の人間関係というのには当然自分も含まれるということは容易に予想がついた。マーリオンから次に質問が飛んでくるのは自分ではないかとヴェルナーは掌に冷や汗を感じていた。 マーリオンが携帯端末の小さなディスプレイから目を離して、再び隊員の列に向かって顔を上げた時、ヴェルナーとリリアの顔をちらりと見たような素振りがあった。ヴェルナーとリリアは二人ともそれに気が付くが、マーリオンは次の瞬間には再びヴェルカの方を見ていた。 「わかりました。艦長にはそのように報告しておきます」 「少佐! 私達でアンダーソン少尉を捜すというわけにはいきませんか!?」 重苦しい空気に耐えかねて一歩前に出て発言したのはリリア。マーリオンは微笑みながらも哀しそうな瞳でリリアを見返した。 「アイスナー少尉、残念ですがそれはできないのです。通達は『フォーマルハウト乗組員の月面都市への外出を禁じる』ということですから、どんな理由であれ、私達は基地の外に出るわけにはいかないのです」 「では、ここで待っているしかないということですか?」 「その通りです。仕方ありません。月面都市に駐留しているGUSF部隊か、警察当局に依頼して捜してもらうしかありません」 「困ったことになったよ、ボルン少佐」 アレクシスは苦虫を噛み潰したような顔でマーリオンを振り返った。 マーリオンがミュリエル行方不明の報告をした後に出た言葉だった。艦橋は補給を受けている最中とは言え、艦橋要員がせわしなく仕事を進めていた。しかし、ミュリエル脱走の話がなければここまで慌ただしい雰囲気には包まれなかっただろう。シルビアとエカテリーナの手だけでは足りないので、本来は別の任務に就いている士官達も彼女らの補助にまわっていた。 「アンダーソン少尉が脱走したことが呼び水になって、今までに彼女を含めてフォーマルハウト乗組員のうち四人が基地を脱走しているそうだ。他にもフォン・ブラウン基地の兵士も何人かそれに同調して脱走しているらしい。その際に基地警備兵が数人軽傷を負っている」 この件に関してはシャオからアレクシスへ権限が移行され、最終的な判断を除く経過の処置はアレクシスの判断で行われることになったため、フォーマルハウト内の報告はすべてアレクシスの元へ集められていた。 「一応、士官で脱走しているのはアンダーソン少尉だけということになっているが……。この時期にこういった事件は全軍の志気に関わるぞ」 「申し訳ありません。すべて私の責任です」 アレクシスは、くわえていた煙草の入っていないパイプを口から離すと、大きく溜息をついた。 「責任の追及はアンダーソン少尉が帰ってきてからまた後でするとして、基地指令の元へ艦長と、私と、君とで報告に行くからそのつもりでいたまえ」 「は。了解しました」 敬礼するマーリオンを横目に捉えながら、無事に帰ってくればいいがな、と頭の中で独り言ちつつ再び深い溜息をつくアレクシス。 その後、今後フォーマルハウトが出航するまでに脱走を試みようとした者は射殺もあり得るという通達が基地指令の名前でフォーマルハウト、およびフォン・ブラウン基地の各部隊に出された。 「……室長。基地で何かあったんですかね? いやに慌ただしいようですが……」 「さぁな。おおかた脱走兵でも出たんだろう」 助手席に座っているクラウス・ボルン博士はドアの窓に肘をかけて、さも興味なさそうに応える。運転席の若い技術者はクラウスの相変わらずの無愛想に苦笑いを浮かべた。 彼らはドラグーンの補給とラファラン機の修理を兼ねて、MARIONシステムに蓄積された戦闘データの収集をするためにフォン・ブラウン基地までやってきていた。彼らの車の後ろにはドラグーンの部品を搭載した大型のフル・トレーラーが二台続いている。クラウスらの乗る車とトレーラーの車体側面にはマクレイン・エアロスペースのロゴマークが大きく描かれている。 「まずは基地司令部に寄るんでしたよね」 「ああ、頼むよ」 「後ろの二台はフォーマルハウトのドックに向かってくれ」 運転席に座っているクラウスの部下である技術者、トムソンは通信で後ろのトレーラーに指示を出すと、自分はハンドルを切って基地司令部に向かった。 基地指令に向かって敬礼を施すシャオ、アレクシス、マーリオンの三人。 基地指令マドックス・クロウ少将もこれに敬礼して応えるが、あまり気分の良さそうな顔ではない。彼は敬礼もそこそこに先ほどまで座っていた椅子に再びどっかと腰を下ろす。自分の体温で暖められていた椅子に張られた合成皮革の生暖かい感覚がやや不快感を誘う。 「今回のことでは、基地指令には大変ご迷惑をおかけしております。現地部隊と警察当局に依頼して全力を挙げて脱走兵を探索いたしておりますので……」 まず、シャオが現在の概況を説明しだすが、 「もういい。済んでしまったことを言っていても仕方がない」 とクロウ少将はシャオの言葉を遮った。 「それよりもマーリオン・ボルン少佐、君に聞きたい」 「何でしょうか、少将」 一歩前に進み出るマーリオン。 「脱走したアンダーソン少尉だったかね、彼女を含めたドラグーン中隊員の経歴を一通り調べさせてもらったよ。〝あれ〟は一体どういう基準で選ばれているんだね。新人のパイロットばかりじゃないか。中には飛行時間が極端に短い、二十歳になったばかりのパイロットまでいる」 クロウ少将は腹の上に手を組み、背もたれに深くもたれかかり襟に顎を埋めるようにして低い声でマーリオンに問う。 「ドラグーン専任パイロットの選考基準に関してはGUSF上層部とマクレイン・エアロスペース社の機密事項ですので、一介の指揮官である私は詳しいことを聞かされておりません」 きっぱりと軍人の模範のように応えるマーリオン。 クロウ少将はマーリオンの視線を真っ正面に捉え、彼女の言葉に嘘偽りがないか、見透かそうとするかのように微動だにしない。 やや間があって、彼は口を開いた。 「そうか。では質問を変えよう。君はあの一見不揃いの林檎に見える彼らを御する自信があるのかね? 我が方の戦力に倍する反乱軍との戦いでドラグーンの果たすべき役割は君にもよく分かっているはずだ」 マーリオンはこれに即答する。 「はい。それは重々承知いたしております。私は、彼らを率いて前線に立つ指揮官として、立派にその役割を果たす所存です。しかしながら、まだ精神的に弱い部分を持つ彼らを一人前に仕上げるには今しばらくのお時間を頂きたいというのが本音です」 クロウ少将はもたれかかった背もたれから体を起こすと、自分の執務用の机の上で手を組み直した。 「それは答えになっていないな、少佐。事は急を要する。彼らが一人前になるのを待っていたのでは遅すぎる。現に、君は一人のパイロットを制御しきれなかった。今すぐにでも実戦に堪えるベテラン・パイロットに換えたほうが早いし確実ではないのかね」 「少将のおっしゃることはごもっともです。しかし、ではなぜ最初からドラグーンの専任パイロットにベテランを選ばなかったのでしょう。上層部もなぜそれを容認したのでしょう。お言葉を返すようですが、ドラグーンを操縦するのに必要なものを彼らしか持っていないとしたらいかがいたしますか? ドラグーンは彼らにしか操縦できないのです」 断言するマーリオン。ドラグーン・パイロットの選考基準に関しては何も明かされていないにも関わらず、これだけマーリオンが断言できるということは、彼女自身の中でなんらかの確信があるのか。さらに厳しい視線でマーリオンの目を見返すクロウ。 「航宙機が操縦者を選ぶというのかね。だとしたら、ずいぶん厄介な代物を買ったものだな、上も。それほどにまで欲しい物だった、というのは先の戦闘の結果を見れば理解できなくもないが……」 クロウは顎を撫でながら口を曲げて続ける。 「しかし、今の話には根拠があるのかね? 君の推測に過ぎないとしか思えないが」 根拠を求めるクロウの詰問に、マーリオンの声のトーンは若干落ちる。 「申し訳ありません。根拠としてお示しできる資料を持ち合わせておりませんし、私の論を補強してくれる専門家もおりません」 先ほどまで前のめりに話していたマーリオンの体も自然に後ろに戻っていく。 クロウは、失笑交じりに目を伏せると、 「……君の父親はドラグーンの主任設計者じゃなかったかね? 彼以上の専門家は他におるまい」 父親の話が出ると、マーリオンの表情が少し曇る。クロウは、その変化を見逃さなかったが、それが何を意味するのかは推測の域を出なかった。 「確かに父はドラグーンを設計しましたが、もう八年以上も顔を合わせておりませんし、彼は仕事の話を私には一切しませんので」 「そうか。プライベートな質問だったな。この話は忘れてくれ。しかし、ならばこそ私は君に聞きたいのだ。彼らが信頼に足る理由には何があるのかね?」 クロウの質問の後、マーリオンは少しの間黙っていた。 アレクシスは、マーリオン一人に任せておくのは荷が重すぎるのではないのか、とシャオに目配せするが、シャオは小さく首を横に振って要らぬ助け舟を出さぬように戒める。シャオとアレクシスはフォーマルハウトの責任者ではあったが、直接ドラグーンのパイロット達と話をした回数はごく僅かであり、彼らのことも資料の上で知っているに過ぎない。彼らのパイロットとしての資質について無闇に太鼓判を押すのは、マーリオンの隊員掌握についてクロウの心証を更に害することもありえた。 だいぶ待ってから、マーリオンは口を開いた。 「失礼ですが、少将にお子様は? プライベートな質問ですが」 クロウにはマーリオンの質問の意図をすぐには掴みかねたが、先ほど意図せずプライベートな質問をしてしまった以上、クロウも答えないわけにはいかなかった。マーリオンが無礼とは知りつつクロウの失言を逆手にとっているのだとしたら、彼女がこれから何を話そうとしているのか純粋に興味を持ったものあった。 「息子が一人と、娘が二人いる」 これでおあいこだ、と言うように、少し不機嫌そうに答えるクロウ。 「ありがとうございます。ではお解かりになるでしょう。親が子を信頼するのに理由が必要でしょうか?」 マーリオンは丁寧に礼を述べると、イエスと答えざるを得ない質問をクロウに投げ返す。 「それが君の答えかね」 クロウはやや失望したような面持ちでマーリオンに問う。しかし、マーリオンは少しもたじろぐことなく、 「はい」 と短くはっきりと答えた。 根拠のない無償の信頼とは、いつか裏切られるものだ。それはクロウ自身も自分の子育ての過程でそれを思い知らされていた。しかし、子を信頼せずして、その子から信頼されることもない。これもまた真実だ。親は性別をはじめとしてどんな子がいいと選ぶことはできない。子もまた、親を選ぶことができない。隊長と部下の関係もまた同じなのではないか、裏切られるのが怖くて信頼できないなどということはありえない、と彼女はそう主張しているのだ。 理屈はわかるが、一般論で言いくるめられたようで納得がいかず、「一人前ではないから負けましたでは済まない」、となおも質問を繰り返そうと口を開こうとするクロウを遮って、マーリオンは話を続ける。 「もうひとつ、これだけは申し上げられます。既に二度の実戦を経験し、損傷を受けた機体もありましたが、今まで一人も欠けずに戦い、フォーマルハウトを守り、戦果をあげてきた彼らは評価されるべきです」 逆説的な例え話から急に現実問題に話を戻したのでクロウは少々驚いたが、今までの話の中ではもっとも納得できる話でもあった。 (なるほど、戦功に理屈は必要ない、ということか) クロウは、階級章の星や線が増えるたびに理由や証拠を重んじるようになっていた自分を嘲った。自分の疑問をぶつける相手を間違えていたようだな、とも感じていた。 彼は、まっすぐな瞳で自分を見つめるこの若き指揮官に賭けてみたくなった。彼個人としては、どの道正攻法を使っていたのでは倍の宇宙戦力を持つ反乱軍に勝つのは不可能なのだ。最初からこの戦いは有無を言わせずハンディキャップを押し付けられたギャンブルのようなものだったのだ。という将官らしくない考えもふと浮かんでいた。 「……よろしい。では、今後このようなことがないようにこのマドックス・クロウに誓えるかね」 「ドラグーン一号機に誓って」 クロウは、しばらく黙ったままマーリオンの真剣な眼差しを見ていたが、椅子を立つと、マーリオンに背を向け、椅子の背後にある窓から外を眺めた。 「この件はフォン・ブラウンで内々に処理し、上層部へは知らせないでおく」 マーリオンをはじめとする三人は内心ほっとし、肩の力が一気に抜ける。 「それから、シャオ大佐。これは連絡だ。フォーマルハウトに補充要員が派遣されてくる。そのうち軍属一名、民間人二名に特殊な人物がいるので、直接君のところへ行かせる。あとはこちらから回す資料を参照してくれ」 「了解しました」 シャオがそう返事をすると、クロウの執務室のドアをノックする音が聞こえた。 「司令、マクレイン・エアロスペース社のクラウス・ボルン氏がお見えです」 そう伝えに来た下士官の言葉にマーリオンの髪が跳ね、一瞬表情に驚きが走る。そして彼女の表情は一気に曇り、みるみるうちに困惑の色が広がっていく。先ほども父親の話が出た時に表情の変化があったが、たった今まで気丈にクロウに反駁していたマーリオンの表情が再び急変したのを見てクロウは訝しく思った。しかし、親子の間にも色々あるものだ、とその場はあえて気にしないことにした。 「よろしい。通してくれたまえ」 「そ、それでは私はこれで……」 先ほどから様子のおかしいマーリオンが執務室を辞する言葉を口にしたが、クロウはマーリオン達の退室を認めなかった。彼には彼女の表情から想像するに、早々にこの部屋を立ち去りたい気持ちを理解できなくもなかったが、クロウには公人として彼らを呼び止める正当な理由があった。 「待ちたまえ。クラウス・ボルン氏はフォーマルハウトに用事があって来たのだ。ついでに彼らをフォーマルハウトまで案内してもらいたい。そこで控えていてくれ」 「は、はい……」 マーリオンをはじめとするフォーマルハウトの三人は部屋の壁際に立ち、クラウスとその部下一名を迎えた。 「久しぶりですな。ボルン博士」 「お久しぶりです、クロウ少将。積もる話もありますが、早速ドラグーンのほうを見せていただけますかな」 積もる話と言いつつも、ドラグーンに比べれば大した話などない、と言わんばかりのクラウスの態度に、クロウは肩をすくめた。クラウスも一見落ち着き払っているようで、早く実戦を経験してきたドラグーンをその目で見たいとまるで子供のようにうずうずしているのが見ていてもすぐにわかる。 「相変わらずせっかちな男だな。よろしい、また帰りにでも寄ってくれたまえ。いくつか聞きたいこともある。ドラグーン中隊長直々に案内させる。ボルン少佐」 「は、はい。お、お久しぶりですお父……、いえ博士」 クロウに促されると、小幅な力のない足取りでクラウスの前に進み出る浮かない顔のマーリオン。どういった表情をすればいいのかわからないといった雰囲気がシャオから見てもすぐにわかる。クラウスもにこりともせず、 「さっそくで済まないが、案内頼む」 と短く実の娘の言葉に答える。 実の親子の対面だと言うのにいやによそよそしく、ぎこちないやりとりにシャオとアレクシスは横目をお互いに見合わせていた。 「ヴェルナーさん、聞きましたか?」 「何を?」 ヴェルナーはドラグーンコックピットのコンソールから目を離さずに答える。マーリオンの指示で、これまでの戦闘で得られたデータを、既に自分の分は終わってしまっているリリアに教わりながら整理しているところだった。 「ボルン隊長のお父様がこのフォーマルハウトに来てるそうですよ」 「ドラグーンを設計したっていう、あのクラウス・ボルン博士か?」 ヴェルナーは手を止めてコンソールから目を離し、思わずリリアの顔を見返した。 「はい。噂をすればなんとやら、です。来たみたいですよ」 ヴェルナーはコックピットの中で立ち上がってドラグーンの下を見下ろす。すると、ちょうどマーリオンを先頭にしてクラウスが格納庫に入ってきたところだった。まだ距離があって顔はよくわからないが、背格好が分かるだけでも急に実感が湧いてくる。 「あれが隊長の親父さんか……」 一方、マーリオン達の方は格納庫に入って早速仕事の話に入っていた。先に搬入させたドラグーンの修理用部品はラファラン機に取り付けが始まっている。 「中隊長、各機のデータの整理は済んでますかな?」 「現在進行中で、およそ半数の機体が処理を済ませています。終わっている分だけでもご覧になりますか?」 マーリオンは後ろに控えていたクラリッサからタブレット型携帯端末を受け取ると、クラウスに手渡す。彼はその場で立ち止まって端末の画面に指を滑らせてページを一枚一枚めくっていく。 「素晴らしい……。トムソン君見たまえ。私の予想以上の結果が出ている」 代わる代わるデータを眺める二人を見ていたが、マーリオンは航宙機の専門家ではなかったため、その画面に示されているデータが何を示しているのかはよくわからない。しかし、クラウスらにとっては十分満足できる結果だったようだ。 「隊長、残りの機体のデータも出ました」 マーリオンは再びクラリッサから別の機体のデータを格納した端末を受け取ると、それもクラウスに渡した。すると、今度は一変してクラウスの表情が曇った。 「これは、ダメだな。まだ十分に機体を扱えていないようだ。これはこれで興味深い結果ではあるが……」 端末の画面から目を離そうとせずに再び歩み始めるクラウス。それに従ってマーリオン達も歩き出す。 徐々にヴェルナーの機体に近づいてくるクラウス。なぜかクラウスが近づいてくる度にヴェルナーの鼓動は速くなっていく。 「この機体は、十三号機だな」 不意にヴェルナーの機体の前で立ち止まり、それを見上げるクラウス。驚いて慌てて敬礼するヴェルナーとリリア。しかし、クラウスはそれに返礼するでもなくマーリオンに尋ねる。 「この機体のデータが一番悪いな。パイロットの成長も最も遅いようだが……」 「パイロットにはそれぞれ個人差がありますので……」 ためらいもせず不満を口にするクラウスに、そんなデータでパイロットの成長が判るのか、と思いつつもマーリオンは辛抱強く説明を続ける。 「それはもちろんそうだが……」 クラウスは不満げな表情を崩さず、端末の画面を一三号機のデータの最初のページに戻す。 「ん? このパイロットは……。そうか。そういうことか。よろしい。近いうちに実績を上げて知らせていただきたいものだ。この機体とパイロットのことは非常に楽しみにしている」 一転して期待に満ちた笑みを浮かべながら、口ひげを撫でつつ一人で勝手に納得するクラウス。 そうして、彼らはヴェルナーの機体を通り過ぎ、次第に離れていく。 「なぁ! あんたドラグーンの設計者なんだろう!?」 「三号機のMARIONシステムに名前ってあるのか?」 「ヴァイス少尉! 高いところから問い質すなんて無礼な真似はよしなさい!」 「構わんよ。面白い質問だ。パイロットが〝そんなこと〟に興味を持つとは。そのくらい教えてやらんでもない」 「博士!」 「十三号機の君、MARIONシステム三号機は〝キャリステジア〟だ。これでいいか? もっとも、本人は覚えておらんだろうがな」 「ありがとうございます!」 「キャリステジア……。」 「軽々しく質問に回答なさるのは控えてください!」 「納入が済んでしまったものに開発中の秘密なんて意味がなかろう?」 「何を話しているのかよく聞こえなかったが、俺の機体の何かあったんだろうか?」 「さあ……」 お互いに顔を見合わせて首を傾げるヴェルナーとリリア。 「ああ、ああ! そこの君! そこはそうじゃないんだよ!」 クラウスは突然ドラグーンの整備にあたっていた一人の整備兵を指差し、つかつかと歩み寄っていく。整備兵のドラグーンの扱いが悪いと文句をつけているようだ。何事かと最初は驚いている様子の整備兵だったが、その傍若無人な男がクラウス・ボルン博士と判ると、仕方がなくクラウスの指示を素直に聞いていた。 一通りドラグーンの格納庫を見終わると、クラウスは一旦マーリオンと別れ、その部下トムソンとフォーマルハウト内の通路で立ち話をしている。 「トムソン君、これとこれと、これ。よく見ると、思った以上にデータが芳しくない。今後注意が必要だ。場合によっては差し替えも必要になるかもしれん。二次候補の選定は終わっているな?」 「はい。選定済みです」 クラウスは比較的大きな声で周囲にはばからぬ様子だったが、トムソンの方は内緒話のように声を低くして答える。 「……資格はあったかも知れないが、素質はなかったのかもしれん」 クラウスはデータが表示されたタブレット型携帯端末を手の甲ではたきながら言う。 「それと、十四番目、十五番目はまだか?」 「現在手配中です。数日中には合流させられるかと思いますが」 「これはええと、なんて言ったか、乗艦予定になっている彼にも伝えておいてくれ」 「わかりました」 その時、彼らの横から近寄ってくる者があった。 「ボルン博士……、いえお父さん」 「なんだ、マーリオンじゃないか。何の用だ」 「……家にも何ヶ月も帰ってないそうですね。リヒャルト叔父さんが心配しています」 クラウスはしばらくマーリオンの顔を見ていたが、すぐにデータが表示された端末に視線を落とし、まったくマーリオンの言葉に意を介さないがごとく話し出した。 「それよりもマーリオン、これを見てくれないか。このデータの機体に搭乗しているパイロットについて聞きたいんだが……」 マーリオンは、一人で熱心に話すクラウスの話など上の空で、悲しげな瞳で実の父親を見つめていた。 その頃、基地を飛び出したミュリエルは、私物として艦内に持ってきていた私服に身を包み、フォン・ブラウンの街を当てもなく彷徨っていた。白色無地のTシャツにジーパン、持ち物は小さなバックパックのみというラフな服装で歩くその姿は一見すれば軍人には見えないだろう。軍用の車は目立つので路地裏に隠してきている。 フォン・ブラウンの街は様々な商店が並び、昼間は買い物客や仕事をする多くの人が道を行き交う。反乱が起きているなどとはとても思えないほど平和な町の様子。 ジーパンのポケットに手を突っ込んで歩道を歩くミュリエルは後悔にも似た虚しさを覚えていた。 ふと、店先のショーウィンドウを見上げると、ガラスの向こう側に煌びやかなイブニング・ドレスが見えた。ドレスを着せられたマネキン人形は、胸を反らして顎を突き出し、誇らしげにポーズをとって他のマネキン達と競い合うように立っていた。いつもなら喜んでガラスに張り付いて眺めるところだが、今のミュリエルにとっては何物も興味のないものと化していた。 ガラスに写る冴えない自分の顔を見ると、ますます虚無感は増すばかりだった。 「……なんか、全然楽しくないな……」 その時、自分の後ろを走っている道をGUSFの警備車両が通過していったのがガラスに写った。ミュリエルは慌てて路地に飛び込む。幸い、私服を着ていたためと、道路に向かって背中を向けていたため気が付かれなかったようだが、朝から何度もこんなことを繰り返している。 「なに、やってんだろ、あたし……」 路地の壁に背中を預け、そのままずるずるとしゃがみこむミュリエル。Tシャツの背中が汚れることは気になどはならなかった。 しばらく俯いてぼんやりしていると、ふっと彼女の前を影が覆った。 「お嬢ちゃん、何やってんの。こんなところで」 その声に反応して顔を上げると、いかにも軽そうな雰囲気の若い男が三人、ミュリエルを囲むようにして見下ろしていた。 「やぁっぱり! あんた、ドラグーン中隊のミュリエル・アンダーソンだろ?」 いきなり自分の名前を口にした男達の言葉にミュリエルは目を丸くした。警備兵!? それにしては制服も着ていないし、軽装過ぎる。ミュリエルは左手で鞄の中を探ると、拳銃の場所を確認した。 「間違いないみたいだな。怪しいモンじゃねぇ。俺らもフォーマルハウトの脱走兵なんよ。お互い脱走兵同士仲良くしようぜ」 脱走兵が怪しくないわけないだろう、と思いつつミュリエルは男達を睨み返し、 「あんた達と一緒にしないでよ。わたしにはあんた達に用なんかない。さっさとあっちいきなさいよ」 と脅すような低い声で言った。 「なんだとぉ? こっちが下手に出てりゃいい気になりやがって」 男のうちの一人がミュリエルの腕を引っ張って強引に立たせようとする。 「なにすんのよ! 離してよ!」 男の腕を振り払おうとして必死に抵抗するミュリエル。護身用に持ってきた拳銃を、と思った時には拳銃の入っているバックパックは男達に取り上げられ、遠くに蹴飛ばされてしまった。 その時、抵抗して暴れるミュリエルのジーパンのポケットからGUSFのIDカードがこぼれ落ちた。 「脱走兵のくせに、まだこんなもんを持って歩いてんのか」 男の一人がカードに気が付いてそれを拾い上げる。IDカードの上の文字に目を走らせる男の表情は確信に満ちた表情に変わっていく。 「間違いねぇ。正真正銘のアンダーソン少尉だ」 「わたしがアンダーソンだったらどうだって言うのよ!」 ミュリエルは両腕を掴まれて身動きが取れない状態でIDカードを拾い上げた男に怒鳴る。 「なぁに、簡単なことさ。ドラグーンを一機かっぱらって来て欲しいのさ」 ミュリエルの動きが止まった。まさに絶句、という表現がぴったりと言えた。 「なっ……! 何馬鹿なこと言ってんの!? 小銭をくすねるのとはわけが違うのよ!? 発艦許可が下りなければフォーマルハウトの外に出せるわけないじゃない!」 「んなこた俺らにだって分かってんだよ。だからよ、人質を取るのさ。ドラグーン中隊にはけっこうトロそうな奴もいるしな。簡単だろ」 ミュリエルはいとも簡単そうにそう言ってのける男を睨み返す。 「ドラグーンを盗って、どうしようって言うのよ」 「全部言わねぇと分かんねぇかな。決まってるじゃんか、反乱軍に高く売るのさ。まさか自家用機にはならねぇだろ?」 鼻で笑いながら、強奪計画の全容を自信たっぷりに話す男。その言葉に驚愕の表情を浮かべるミュリエル。これがGUSF正規軍の兵士の言う言葉だろうか。 「脱走兵の俺達にゃ金も行く当てもねぇからな。ドラグーンを売っ払ってそれで逃走資金と今後の年金の代わりにするのさ。このままじゃどうせ警備兵に見つかって連れ戻されるだけだからな」 「馬鹿にしないで。そんなことに私が手を貸すと思うの!?」 「そうくると思ったよ。んじゃま、少しばかり痛い目を見てもらうかな」 男は身動きのとれないミュリエルのTシャツの襟をつかむとそれを引きちぎろうと力を込めた。きつく目をつぶるミュリエル。しかしその刹那、鈍い金属音がしたかと思うと、その手の力はなくなる。ミュリエルの前にいた男は白目をむいてどうと倒れる。 「な、なんだお前!」 「大の男が三人も寄ってたかって婦女子をいたぶるとは男児の風上にも置けぬ輩。恥を知れ」 恐る恐る目を開けたミュリエルが目にしたものは、黒髪の端整な顔立ちの若い男だった。歳のころは三十代前半といったところだろうか。半歩右足を前に出し、鉄パイプを青眼に構えている。 男は殴りかかってくる暴徒の攻撃をひらりとかわすと手に持った鉄パイプで男達の背中や肩を打ち据える。どこかで見たことがある、と思ったミュリエルは次の瞬間にはその答えを得ていた。そう、確か日本の剣道とかいう武術の太刀筋によく似ている。 「く、くそ! 覚えてろよ!」 勝ち目がないと判断した男達はお決まりの捨て台詞を残して気絶している仲間を担ぎ上げると、一目散に逃げ出していった。その時、IDカードを放っていくのがミュリエルの目に映った。 黒髪の男は大きく一回息を吐くと、鉄パイプをその辺に放ってミュリエルの方に体を向けた。 「怪我はないかな? お嬢さん」 そう言って手を差し伸べる男に見とれていたミュリエルは、慌ててその手を取って立ち上がった。先ほど散々暴れたので、白かったTシャツは真っ黒になっていた。 「だ、大丈夫です。ありがとうございます」 ミュリエルはそう言いながら男の足下に落ちているIDカードを慌てて拾った。 「ん? なんだい、それは?」 ミュリエルはカードに書いてある文字と写真が見えないように隠しながらポケットにそれをねじこむ。 「い、いえ! なんでもないです!」 GUSFのIDカードだ、などとは口が裂けても言えない。この男ももしかしたらミュリエルをGUSFの軍人、しかもフォーマルハウトの乗組員だと知った時にはどうなるか分からなかったからだ。そして、そうなって欲しくないとミュリエルが願ったからだ。 「大声が聞こえたので様子を見に来たんだが、さっきの奴らは知り合いなのか?」 「い、いえ。今日初めて顔を合わせました……」 本当は同じフォーマルハウトに乗り組んでいるのだから同僚とも言えたが、顔を合わせて言葉を交わしたのは本当に今日が初めてなので、嘘は言っていない、とミュリエルは自分で自分に言い聞かせる。 「君の名前は? 見たところ学生のようだが……。私はブライアン・ジョセフ・ムラキ。このフォン・ブラウンで航宙機の設計をしている」 「あ、私はミュリエル・アンダーソンです。え、えーと、学生……です」 嘘をつかずにいられたのはここまでだった。早くもブライアンの問いに対してつい口から出任せを言ってしまったミュリエル。 「良い名前だな。学校は? 今日は学校休みの日じゃないだろう」 「えーと、あの、はい……。学校はサボってます……」 ミュリエルは俯き加減で仕方がなく嘘の上に嘘を重ねてしまう。 「それは良くないな。それでこんな目に遭ってるのでは、自業自得としか言えないぞ」 溜息をつきながらも、ミュリエルの言うことをすっかり信用してしまっているこの人の良さそうな男、ブライアン。彼は、腰に手を当て、 「これに懲りたら、もう学校はサボらないようにすることだな」 とまるで学校の先生のようにミュリエルに諭す。 ブライアンはミュリエルに短く別れを告げると、彼女から離れていこうとした。ミュリエルはその瞬間自分でも信じられないような言葉を口にしていた。 「あ、あの! 待ってください! 私、帰るところがないんです!」 ミュリエルは言ってしまってから、この人を引き留めてどうしようというのだろう、と自分自身に疑問を感じた。しかし、また先ほどの脱走兵達がミュリエルを仲間に引き込もうとするかもしれない。身を守るにはこれしかない、と判断したのも後になって思えばあったのかもしれない。 一度ミュリエルに背を向けたブライアンは、ミュリエルの言葉に驚いたように振り返った。 「今時、家出少女か?」 ミュリエルは懇願するような表情でブライアンを見つめる。 「……わかった。じゃぁ、とりあえずうちに来るといい。お茶でも飲みながら話を聞こうじゃないか」 ミュリエルは蹴飛ばされていたバックパックを拾い上げると軽く埃を払い、中身を見て拳銃は盗まれていないのを確認すると、ブライアンのあとをついていった。 車に乗ってミュリエルが連れてこられた家は町の郊外にある住宅街の一角にあった。白い壁の美しい建物で、地球の高級住宅を思わせるたたずまいだった。 「剣道をなさっているようだから、もっと和風の家に住んでいるのかと思ってた……」 「よく私が剣道をやっているってわかったね」 「あの鉄パイプの太刀筋は素人じゃないと思いました」 ブライアンはにっこりと微笑むと、家のドアを開け、ミュリエルに中に入るよう促すように自分は玄関口の脇に立った。 「さぁ、とにかく入ってくれ。今、妻にお茶を用意させるから」 「え!? 結婚なさってるんですか?」 予想していなかった言葉にブライアンの顔を見上げるミュリエル。 「おいおい。そんなにモテないように見えるかい?」 その言葉に苦笑いを浮かべ、大袈裟な動作でおどけたように言うブライアン。 「い、いえ。そんな……」 「ブライアン? お帰りなさい。あら、お客様?」 家の奥から現れたのはブライアンと同じくらいの歳と思われる金髪の美しい女性だった。ブライアンの妻と思しき女性の顔に見とれながら美男美女のカップルというのはこういうのを言うのだろうか、とミュリエルは思った。 「ミュリエル・アンダーソンといいます。ブライアンさんに危ないところを助けていただきまして……」 「まぁ、そうでしたの? どうぞ入ってくださいな。今、お茶でも入れますね」 突然の来客に、しかも真っ黒になったTシャツを着た、いかにも不審な若い女性に嫌な顔ひとつせず、女性は嬉しそうにミュリエルを屋内へ誘い、キッチンへと消えていく。 ミュリエルが家に入ろうとした時、荷物を預かろうとブライアンが手を伸ばす。ミュリエルはうっかり手渡しそうになったが、その中身を思い出して、それだけは、と固辞した。ブライアンは訝しく思いながらも、若い女性の荷物を受け取るというのは無礼だったかな、と反省し、それ以上強く申し出たりはしなかった。 ミュリエルは居間に通され、ソファーを勧められてそこに腰を下ろす。その荷物はひとまずミュリエルの座るソファーの脇に置いてある。 ブライアンはミュリエルの正面に座り、紅茶の湯気の向こう側のミュリエルを見ている。 「そうだな……。さっきの奴らとの悶着は何が原因なのかな? まずそれから聞こうか……」 まさかドラグーン強奪の算段を持ちかけられたとは言えない。ミュリエルは仕方がなく、強引にナンパされそうになった、と嘘の事情を説明する。 「そうか……。あの辺はああいうゴロツキが多いから、気をつけないとダメだぞ。学校で注意されなかったか?」 「すいません……」 もともとミュリエルは月の住人ではないので当然そんな話は聞いたことがない。とりあえず反省しているような顔をしてその場をやり過ごす。 「まぁ、その件はいいとして、家出してきたんだって? 袖擦り合うも他生の縁とも言うし、話せる範囲でいいから、少し事情を説明してくれないかな」 「はい……」 ミュリエルは、すっかり沈み込んだ表情で話し出した。 基地の外に出られないと聞いて自分が落ち込んでいる間もヴェルナー達が待機室で楽しげに食事をしていたことや、自室でベッドに潜り込んで来室者にも応じないでいた時にたまたまやってきたヴェルナーの声の他にクラリッサやリリアの声が聞こえたこと、バーを出た直後にまたしても四人で連れ立って歩いている姿を思い出していた。 「もう、あそこには私の居場所はないんです……」 「あそこ、というのは、家のことでいいかな? ご両親と喧嘩でもしたかい?」 ブライアンは、確認するようにミュリエルに質問を投げかけるが、彼女は黙って首を振る。 「うーん。家族じゃないとすると、恋人と?」 恋人という言葉にふとヴェルナーの顔を思い浮かべるミュリエル。しかし、彼女は神妙な顔つきのまま何も答えない。最後の一言は苦し紛れのほとんど冗談のつもりだったのだが、いきなり図星を突いてしまったように見えたので、ブライアンは無理にその辺は聞き出そうとはしなかった。 「……なんて、説明したらいいんだろう。すいません。うまく説明できないです……」 「いやいや、無理にとは言わないけども。何があったのかはよくわからないけど、ご家族と喧嘩したわけでもないのに家出しているのは何故かな、と思ってね」 「正確には家出じゃないんです……。でも、これ以上は言えないんです」 ブライアンはふむ、と鼻を鳴らすと、ティーカップを持ち上げ、口へ運んだ。 「今はこれ以上聞かないことにしよう。気が向いたら話してくれないかな。こんな私にでも話せば少しは気が楽になるかもしれない。なんだったら、妻に話してくれてもいい。女同士の方が話しやすいかも知れないからね」 「……わかりました。ありがとうございます」 事情を詳しく説明したいのは山々だったが、最初から説明しようとすると、どこをどうやって話しても最終的にはGUSFの話に到達してしまう。これまでの話の流れを見ても、表面的なところだけ話しても事情はあまり理解してはもらえそうにもないのは確かだ。 「ブライアン。せっかくのお客様ですもの。今日は泊まっていただいたら?」 話が途切れたところでブライアンの妻が彼の隣に座り、ひとつ提案を投げかける。 「いえ、そんな。ご迷惑になりますから……」 ミュリエルは、恐縮して慌てて辞退しようとするが、 「そうだな。そうするといい。どうせ帰るに帰れないんだろう? さっきの男達にもまた出くわさないとも限らないし」 というブライアンの言葉で話はまとまってしまった。ミュリエルの脳裏に先ほどの脱走兵の男達の顔が浮かぶ。できることなら、今日のところは彼らとは再び顔を合わせたくないのが本音ではあった。 ミュリエルは、屈託のない笑顔を彼女に向けるこの親切な若い夫婦に重大な嘘をついていることを申し訳ないと思いながらも、心から感謝するのだった。 「それで、クロウ少将。私に聞きたいことというのは? 忙しいので手短に願いますよ」 クラウスは、フォーマルハウトでの作業を終えると、クロウの求めに応じて再び基地司令部を訪れていた。既に空は夕焼け色に染まっている。彼は早く職場に戻ってデータの解析をしたかったので、本当は出頭せずに帰ろうとしていた。しかし、部下のトムソンから、軍との関係が悪くなることだけはどうしてもやめて欲しい、特に約束事は慎重に扱って欲しい、と懇願され、しぶしぶ立ち寄ることにしたのだった。 クロウは、いつもの調子のクラウスに苦笑いを浮かべながらも、すぐに真顔になると、 「では、単刀直入に聞こう。ドラグーン・パイロットの選考基準を教えて欲しい」 と率直に話を切り出す。 クラウスは、クロウの質問に驚くでもなく、片方の眉を吊り上げると、不敵な笑みを浮かべて淡々と言い放つ。 「ドラグーンがパイロットを選ぶのです。我々が選んでいるわけではないのですよ。その質問はドラグーンに聞いてやってください」 クラウスの顔に窓からの夕日が差し、その笑みをますます含みのあるものに見せていた。 どうやら彼女の話は本当だったらしいな、クロウはマーリオンが言っていた、彼らしか操縦できない、という言葉を思い出していた。 「これでよろしいか?」 クラウスは、体の向きを変えながらクロウに別れを告げようとするが、 「そう急ぐな。もう少し話を聞いてからでないと、またここに呼ばれることになるぞ?」 と引き留め、軽い脅し文句を付け加えるクロウ。彼には軍が使う機器を製造しているメーカーには、当然、応分の説明をする義務がある、という言い分があった。クラウスにとっては、クロウの都合などどうでもよかったが、仕事の邪魔だけは御免被りたかったので、その言葉に再び体をクロウのほうに向け、 「少将、残念ながら、あなたには詳しく説明することはできないのですよ」 と深い溜息をつく。 「なぜかね、私は仮にもGUSFの将官だぞ?」 クラウスは、明らかに失笑を交え、クロウの抗議を撥ね付ける。 「階級は関係ありませんな。ドラグーンが配備された時点でそれを知らないということは、それを知る資格がなかったか、知る必要がないと判断されたということでしょうな」 さすがにクラウスの度重なる傍若無人な物言いに不愉快なものを感じ始めたクロウは、顔を強張らせて語調を強くする。 「私に資格がないだと? 言葉は選んだほうがいいぞ、ボルン博士」 「左様。世の中には知らないほうがいいこともあるのですよ、少将」 クロウの言葉の後半をまったく無視し、あくまでも頑なな姿勢を崩そうとしないクラウス。クロウは、屈辱にはらわたが煮えくり返る思いだったが、辛抱強く質問を繰り出す。 「選抜方法は? 適正試験があったと聞いたが?」 「同じことです。それもお答えできませんな」 その後、クロウが何を聞いても、クラウスは無表情な目をクロウに向けたまま、一切口を開こうとしなくなった。 「……あくまでも話さない気だな?」 「何度も言わせないでもらえますかな。あなたにとっては知っても仕方のないことなのですよ」 再び溜息混じりに少将であるクロウを見下すかのような視線を投げかけるクラウス。 「……わかった。今日のところは引き下がろう。ただし、このままで済むと思うな。私のほうでも調べさせてもらう」 「ご随意に。調べてわかるようなものなら、私の口から説明する必要もありますまい?」 クラウスは、絶対にわかるものか、と言わんばかりに再び不敵な笑みを浮かべると、部下のトムソンを連れてクロウの執務室を出て行った。トムソンは、ドアを出る前にクロウを振り向いて、 「ご無礼をお許しください」 と一言付け加えていった。 二人の姿がドアの向こうに消えると、クロウは悔しげに、固く握り締めた拳で机を叩く。机の上に置いてあった書類の何枚かが床に落ち、ペン立てが倒れる。そうして、そのまま彼はしばらくドアを睨み付けていたが、電話機に視線を移すと、受話器を取ってどこかへ電話をかけ始めた。 その夜。どこをどう嗅ぎ付けてきたのか昼間の脱走兵がブライアンの家を監視している。それに気が付いたのは夕食の時、窓の外に不審な人影が見えた時だ。 今はまだ脱走兵として身を潜めなければならない彼らにしてみれば、ここでブライアンの家に踏み込んでくるというような派手な行動をとるとは思えなかったが、ここに長居して、彼らが焦れてくればそういう事態も考えられる。 ミュリエルはブライアン家が寝静まった頃を見計らって門の外に出た。彼女は寝間着姿で風呂上りのままゴムで留めずにそのまま流している髪をなびかせて歩いていく。彼らとて軍人である以上は武器を携行している可能性は考えられたが、ブライアン達を巻き込みたくない一心であえて単身で彼らと接触することにしたのだ。 GUSFでは無闇な銃火器の使用を制限する目的で兵卒と下士官は拳銃の携行に関しては上官の許可が必要で、銃火器ロッカーの解放には一定の制限がある。そのため、彼らが武器を携行している確率は五分以下だと踏んだのもある。事実、彼らがブライアンと対峙した時には拳銃を抜かなかった。 「いい加減に諦めたら? いくら待っていてもわたしはあなた達の仲間にはならないから」 ミュリエルの右手はタオルに包まれている。三人はさすがにその手を見てその中に拳銃があるのでは、と恐れたのか無理矢理ミュリエルを連れ去ろうとしたりはしない。 男の一人が口を開いた。 「……かと言って、フォーマルハウトに帰る気もねぇんだろ。フォン・ブラウンを出なければいずれ連れ戻されるだけだ」 「でも、人質をとってドラグーンを強奪するなんて卑怯な真似はしない」 「なぜこの期に及んで軍の肩を持つ? 俺達は反乱軍と戦うという大義名分を持ちながら、月の奴らには邪魔者扱いされた挙げ句、上の命令ひとつで死にに行かされるんだぞ」 死にに行かされる――その言葉を聞いた時、ミュリエルの表情が一瞬強ばったように見えた。しかし、彼女は毅然とした態度でこう応えた。 「それでもドラグーンを盗んでもいいなんていう理由にはならない」 「じゃぁ、お前はなんで軍を脱走したんだよ!? 軍に不満があったからじゃねぇのか? 今更帰ったって軍法会議が待っているだけだ!」 ミュリエルは答えない。軍に不満があったわけではない。いや、それも理由のひとつでもあったのか。ミュリエルはその頭の中で自分がなぜ脱走したのかはっきりとしたものが分からなくなっていた。 「……いずれにしても、あなた達の仲間にはならない。わたしに頼らないとできないような計画はやめた方がいいんじゃない? これ以上つきまとうと、酷い目に遭うわよ」 ミュリエルは男達に背を向けて門の中に入ろうとする。 「……んだと!」 背中から掴みかかろうとした男をミュリエルは体をねじってかわすと、その男の眉間にタオルに包まれた右手を突きつけた。彼女の動きに合わせて長い髪が弧を描き、肩に巻きつくようにして流れ落ちる。 タオルの下に硬く、ゴツゴツとした感触があることから、中に拳銃が入っていることを直感的に理解し、男の動きが止まる。ミュリエルはタオルの上から拳銃の撃鉄を起こす。 「もう一度言うわ。あなた達の仲間になんかなる気は毛頭ないわ」 彼らは自分達の迂闊さを呪った。昼間出会った時にミュリエルがどこかに武器を隠していないかよく調べていれば、今頃優位に立っていたのは自分達だったのに、と。 男達と別れ、家に入ったミュリエルは一度はベッドに入ったものの、なかなか寝付かれない。彼女の寝室に割り当てられた部屋は二階にあり、もともと来客用に用意してあったものだ。その割に、誰かの私物と思われるぬいぐるみや人形、写真立てが置いてあったのが少し気にはなっていた。 仕方がなく、ミュリエルはベッドから出ると、スリッパを引っかけてカーディガンを羽織る。大きな窓を開けてテラスに出ると、床板の上にしゃがみ込んだ。 膝を抱え、組んだ腕に顎を埋め、ぼんやりと外を眺めるミュリエル。相変わらず男達はこちらを監視しているが、先ほどの反応などから考えて、とりあえず銃火器を携行していないのは間違いないようなので、家の外から中の人間を狙撃することもまずないだろう。もっとも、ブライアンやミュリエルを殺してみたところで彼らには何の得もないのだが、警戒するに越したことはない。ミュリエルがそうしたように、銃は必ずしも人を殺すことにしか使えないものでもない。 彼女の目に映る星空は一応月から見ることのできる星を実際にカメラで取り込んだものを天球プロジェクタで投影しているものだが、所詮は作り物の星空に過ぎない。そして、目の前に広がる夜景も結局のところは人の造り出したものでしかない。 しかし、そこに見える色とりどりの光の中に見える人の営みを思うとミュリエルはひどく懐かしい心地がする。それでも、朝から感じている虚しさもやはり消えることはない。 (明日にはここを離れよう) ミュリエルはそう思った。 「眠れない?」 突然声がしたので驚いてミュリエルが振り向くと、ブライアンの妻、セリナがテラスに出てこようとしているところだった。両手にひとつずつ湯気の立つマグカップを持っている。 「ホット・ミルクだけど、飲む? 眠れない時にはいいのよ」 「……ありがとうございます」 ミュリエルはカップを受け取ると、両手に持って再び夜景に視線を戻した。手から伝わってくる温もりが心地よさを運んでくるとともに、彼女の中の虚無感をさらに際立たせたのは皮肉とも言えた。セリナはミュリエルに寄り添うように座ると、静かに話し始めた。 「あなたのお知り合い? さっき外で話をしてたみたいだけど?」 ミュリエルは、はっとしてセリナの顔を見るが、セリナは特にミュリエルを責めているような表情でもなく、どちらかといえば穏やかな表情をしている。 「詳しいことは話せませんが、まったく知らないわけでもないです。でも、私には関係のない人達です」 ミュリエルは床の一点を見つめ、険しい顔でそう答える。 「そう……。深いお知り合いなら外で寒そうだから中に入ってもらおうかと思ってたんだけど?」 普通なら自分の家の前でうろついている男達がいれば不審に思うところだろうに、このセリナという女性はまったくそんな素振りは見せず、脱走兵の三人を気遣ってまでいる。 「そんな……。そんなことしてあげる必要はない人たちですよ」 (自分は?) ミュリエルはそう言ってしまってから彼らと自分がどう違うのか、という疑問が彼女の中で頭をもたげた。結果的に、彼らに関わることもなければこうしてブライアン宅に招かれて一宿一飯の恩に預かることもできなかったわけで、今頃は自分も彼らのように街を放浪することになったはずだ。まして、あの時ブライアンが現れなければ自分はドラグーン強奪計画を拒みきれただろうか、と。 神妙な顔つきになってきてしまったミュリエルを見て、セリナはこう話し出した。 「私ね、妹がいたの」 ミュリエルは顔だけを、突然別の方向に話を切り替えたセリナの方に向けた。セリナは反応を確かめるように一度ミュリエルの顔を見ると、正面を向いて話を続けた。 「カーリアって言うんだけどね、あなたとそんなに違わないくらいの歳で、ブライアンと結婚してからも何度か家に遊びに来たりしてた。部屋にあったたくさんのぬいぐるみ、見たでしょ?」 やや間があった。深夜だったが、ブライアンの家の前を何台かの車が通り過ぎていく。 「……〝いた〟ってことは、亡くなった、んですか……? 気に障ったらごめんなさい」 「ううん。死んではいないと思うけど、どこにいるのかわからないの。三年前にお父様がどこかに連れて行っちゃったきり……」 なんで自分にこんな話をするのだろう、とミュリエルは黙ってセリナの話に耳を傾けている。 その答えは問わずともすぐにわかった。 「あなたを初めて見た時、カーリアが帰ってきたのかと思った。顔も全然似てないし、背格好も違うのに、不思議よね。ブライアンもあなたがカーリアに似てるって思ったから家に連れて来たんじゃないかしら」 「お父様は、何をされている方なんですか……?」 「アドニス・マクウィルソンってご存じかしら。GUSFの提督なんだけど……。今回の反乱の首謀者で、一躍有名人になったから知ってると思うんだけど」 ミュリエルはその名前をセリナの口から聞いてカップを取り落としそうになった。ミュリエルはムラキ夫妻には一応、学生ということにしてあるから、よもやミュリエルがそのマクウィルソン提督と戦っているフォーマルハウトの乗組員だとは夢にも思っていないだろう。しかし、提督の息女がGUSFにいるなどという話は聞いたことがない。フォーマルハウトの乗組員でさえ全員の名前と顔を覚えているわけではないから、無理もない話ではあるが、噂くらいはどこかで聞いていてもよさそうなものだ。 「じゃ、今妹さんは軍に……?」 「私もそう思って何度もGUSFに問い合わせたわ。でも、そんな名前の兵士はいないって」 「お父様には?」 「聞いたけど、やっぱり教えてくれなかった。知らぬ存ぜぬの一点張りで……。あの子、あんまり体は強い方じゃなかったから、軍隊なんて向いてないはずなのに……」 悲しげな瞳でマグカップの中で揺れるミルクを見つめるセリナ。重苦しい悩みを打ち明けたセリナに対して何を言って励ましていいのかわからず、ミュリエルは当たり障りのない言葉しか思いつかない自分に少し失望する。自分が抱えている悩みなど砂粒ほどのちっぽけなものであるかのような気さえする。 「妹さん、無事に帰ってくるといいですね……」 そうね、と呟くように言うと、セリナはカップに口をつけた。 「ミュリエルさんっていったっけ?」 カップを下ろすと、思い出したように口を開くセリナ。 「ミュリィでいいです。友達はそう呼びます」 「じゃぁ、ミュリィ? 喧嘩して飛び出して来ちゃったっていうその彼氏はどんな人なの?」 先ほどまで沈んだ顔をしていたセリナは、急に人が変わったように興味津々というような表情でミュリエルに迫った。 「そ、そんな彼氏だなんて! あんなのはなんでもないですよ!」 ミュリエルはさきほどの重い雰囲気から急に気持ちが切り替わらず、慌てて手を振って否定する。 「あら。ずいぶんはっきり否定するのね。でも、本当は彼の元に帰りたいんでしょう?」 黙り込むミュリエル。セリナは微笑みを絶やさずにミュリエルの顔を覗き込んでいる。 「……あの中ではあたしが一番つき合い長いのに、他の人と一緒のほうが楽しそうで……。きっと私のことなんかどうでもよくて……」 今日会ったばかりのセリナになんでこんなこと話してるんだろう、と思いながらミュリエルは呟くように言った。彼女は気付いていた。そう、本当は誰かに聞いて欲しかったのだ。話したかったのだ。話すなんて約束していない、などとマクシミリアンに言い放った自分を思い出し、自責の念にかられる。 「わかった。三角関係ってやつね?」 しかし、首を振るミュリエル。 「……私を入れて五人です」 「五角関係!? それはまた複雑ね」 大袈裟に驚いて見せてから、四角や五角なんて聞いたことないわよね、と付け加えながら、くすくすと笑うセリナ。 「でも、私にも似たような経験あるなぁ。ブライアンと、ブライアンの友達で私を取り合ったものよ」 ミュリエルは、どうやってその三角関係に終止符が打たれたのだろう、と純粋な興味を抱いて聞いてみる。 「……なんでブライアンさんにしたんですか?」 「なんでって聞かれるとはっきりとは答えられないけど、ブライアン、妹に優しかったから……。まるで自分の妹みたいに可愛がってくれた。そういう、私だけじゃなくて私の家族も愛してくれる懐の深さ、って言うのかな、優しいところを好きになったのかな」 遠くの方を見つめるような目でそう言ってしまってから、ミュリエルの方を向いて苦笑いを浮かべながらセリナは話を続けた。 「でも、それでまた困ったことになっちゃってね。妹もブライアンのこと好きになっちゃったのよ。三角関係がまた別のところで三角関係になっちゃって、あの時はかなり複雑だったなぁ。ブライアンのことで姉妹喧嘩もよくしたし」 思い出話に浸るセリナはふと気が付いたように話をやめてミュリエルに照れ笑いを見せた。 「あ、ごめんなさい。いつの間にかまた私の話になっちゃったわね」 「とっても興味深いお話です」 小さく笑いながら答えるミュリエルに対して、再び目を輝かせてセリナが顔を近づけて次の質問を投げかけてきた。 「それでそれで? 彼とあなたを除いた三人の中にライバルがいるのね? 彼と親しそうな人はわかる? 誰にも言わないから、教えて? ね? 教えてくれたらお姉さん協力しちゃう!」 胸の前でお祈りの時のように手を組み、質問と一緒に交換条件も出しながら、なんとか聞き出そうとするセリナ。大抵、こういう場合の「誰にも言わない」は当てにならない。ミュリエルは苦笑いを浮かべながらも、展望室をドラグーンで通り過ぎた時に見かけた光景を思い出していた。 「やっぱり、リリア……かな」 「うんうん。リリアさんね。私の直感だとねぇ、きっと他にもいるでしょー?」 白状しちゃいなさい、と言うかのように、セリナは自分の顔をミュリエルの鼻先にぶつからんばかりに近づける。今度は、ミュリエルの脳裏には待機室でヴェルナーの隣に座って、彼の腕や肩に手を添えて度々話しかけるクラリッサの姿が思い起こされた。ヴェルナーが顔を赤くして必死に何かを言い返しているのが印象的だった。 「マクレイン中……、クラリッサかも。でも、彼女は上……じゃなくて、先輩だから……」 ミュリエルは「中尉」や「上官」と言いかけたのを訂正できるくらいには冷静だったのだが、つい何かを期待してしまいそうな、彼女よりもずっと年上の、彼女自身の体験も包み隠さず話してくれたセリナに心を許しかけていた。自分に姉がいたらこんな感じなのだろうかと。 ミュリエルは再び抱えた膝を胸に引き寄せると、膝に額を当てるようにして下を向いてつぶやく。 「やっぱり、男の人って、優しくてちょっと頼りない感じの女の子や、綺麗で頭が良くて、色っぽい女の人の方が好きなのかな……」 「さっきの、リリアとクラリッサって言ったっけ。その娘達はそんな感じなの?」 黙って頷くミュリエル。 「そう……。それは強敵ねぇ……」 セリナは、次の言葉を紡ぐ前に、顔の前で指を折って、五人にならないことに気が付く。 「あら、一人足りないわね。もう一人は?」 「マーリオン……。私達にとっては天の上の人です。あの馬鹿に釣り合う相手じゃないんですけどね」 答えてしまってから、今更隠しても仕方がないか、と半ば開き直るミュリエル。セリナが彼女らに会うこともないだろうと思ったのもある。彼女らはこんなところで自分達が話題に出されているとは夢にも思っていないだろう。 「その中で男性は一人だけなのね。状況はなんとなくわかってきたわ。他の人と比較しちゃう気持ちはわかるけど、あなたにはあなたの良いところがきっとあるわ。そこをもっとアピールしなきゃ。その娘達にはそれぞれ良いところがあって、そこに彼は……なんて言ったっけ?」 「ベルンハルト……。ヴェルナーっていつも呼んででます」 最初は名前を言わないようにしていたのに、セリナの屈託のない笑顔と、要所をついた話術にはまって少しずつ全容を話してしまう自分に少し驚きを覚えているミュリエルだった。 「そう、そのヴェルナー君は、リリアさんやクラリッサさんやマーリオンさんの良いところに魅力を感じてると思うのね。だから、あなたはあなたなりの良さを彼に解ってもらわないと! ねっ? メソメソしたり、癇癪を起こすと良いことないわよ」 励ますようにミュリエルの肩を抱くセリナだったが、ミュリエルは少し違うな、と感じて自分の心情を吐露し始めた。 「たぶん、私の独り相撲なんです。あの馬鹿はわたしをただの友達だとしか思ってないだろうし、マーリオンがあの馬鹿に興味があるとは思えないし、クラリッサも気がある振りしてからかってるだけだろうし、リリアもはっきりしない性格だから何を考えてるのかはわからないんです」 馬鹿というところを強調しつつ話すミュリエル。セリナは黙って耳を傾けて頷いている。 「でも、頭ではわかってるのに、すごくイライラするんです。あの馬鹿が彼女達と一緒にいて楽しそうにしてるのを見ると……」 「なんか、学生時代を思い出しちゃうような話ね。片思いかもしれないのに、他の子にはまるっきりそんなつもりはないかもしれないのに、彼の近くにいる女の子をライバル視しちゃうのよね」 そして、セリナは人差し指を顎に当て、首を傾げて腑に落ちない顔をする。 「でも、不思議ね。興味はないようなのに、なんで彼女達はいつもヴェルナー君と一緒にいるのかしらね?」 彼ら四人が同じ小隊に所属しているからいつも一緒にいるのだ、とは説明できるはずもない。しかし、ブライアンと結婚するまでにきっとたくさんの経験をしてミュリエルが疑問に思うようなことは何でも知っているようにさえ見えるセリナに、全部話してしまおうかと思ってみたりもする。そうしたら、彼女は自分に最善の策を授けてくれるのではないか、と自分がフォーマルハウトの乗組員だと露見した場合のことを一瞬忘れ、都合のよい期待を抱いてみたりもした。 「けど、話を聞く限りではミュリィが一番先行してない?」 ミュリエルはセリナが何を言わんとしているのか、すぐには理解できない。セリナは笑いながら、その理由を説明する。 「だって、少なくとも彼女達はヴェルナー君のことが好きで一緒にいるわけじゃないんでしょ? だったら、五角どころか三角関係にもまだなってないじゃない。彼女達のうち誰かがもし本気になったら少し手強いかもしれないけど……」 本気になったら、という言葉にミュリエルの鼓動が一瞬大きくなったような気がして、はっとして顔を上げる。それを察したのか、セリナは少し慌てて後を継ぐ。 「あ、でも、あのね? 誰が相手でも、というか、相手は本当はヴェルナー君だけだもの。他の子と同じ土俵で張り合う必要はないの」 そして、セリナはミュリエルの鼻先に指を向け、こう続けた。 「自分を信じること。それが一番大事なのよ」 「ありがとうございます。少し元気出ました」 まったく世話の焼けることね、とでも言うような溜息、でもまるで妹を見るような優しい笑顔をたたえてセリナはゆっくりと立ち上がった。テラスと部屋の間にある窓枠に手をかけながらセリナはふと立ち止まり、部屋の中に顔を向けたまま呟いた。 「……あなたが良ければ、いつまでもここにいていいのよ」 独り言のように、本当に小さな声で呟いたセリナの言葉に驚いて顔を上げるミュリエル。セリナは体を再びミュリエルのほうに向けると、両手を前に出して慌てて手を振る。 「あ! 聞こえちゃった? 妹の代わりってわけじゃないのよ。けど、賑やかな方が楽しいじゃない?」 「はい……でも……」 そう言葉を濁すミュリエルの脳裏には待機室にいたヴェルナー達第一小隊の四人と、バーで話に付き合ってくれたマクシミリアン達三人の顔が浮かんでいた。そう言えば、自分が基地を飛び出してきてしまって彼らはどうしているだろう、今頃大騒ぎになっていることだろう。ふとそんなことが頭の中をよぎった。それまではそんなこと考える余裕もなかったが、冷静になってみると彼らにも迷惑をかけているのも間違いない。 「……そうよね。あなたには帰るところがあるんだものね。変な事を言ってごめんなさい。もう遅いわ。そろそろ寝ましょう」 「はい。おやすみなさい」 ミュリエルはそうセリナに答えると立ち上がる。ちらりと門の方を見ると、今夜のところは諦めたのか、脱走兵の男達の姿はなくなっていた。ブライアンの家がやや大きめな通りに面しており、交通量もぼちぼちあることから、挙動不審者として警察に連行されるのを恐れたのか。 ミュリエルにはどうでも良いことだったが。 次の朝、クロウ少将の言っていた補充要員のうち特殊という人物のうち、一人がフォーマルハウトの艦橋を訪れていた。 「こちらは、民間からの乗艦ですね」 シャオは、手元のタブレット型携帯端末に目を落とし、目の前にる人物の経歴にざっと目を通す。 「キュヴィエ・バイオケミカルの技術者でヨハナ・アルフェルトといいます。はじめまして、シャオ艦長」 オレンジ色のキュヴィエ・バイオケミカルの制服に身を包んだ短髪の女性は一歩前に出てシャオに握手を求めた。自分の外見には無頓着なのか、赤毛の前髪を長く伸ばし、シャオからでは瞳がよく見えないほどだ。 「はじめまして。ようこそフォーマルハウトへ。こういう時期に民間人の乗艦というのは非常に珍しいんですが、一応その辺のことはご了承いただいてる?」 ヨハナには乗艦にあたり、艦内では艦長以下GUSF士官の指示に従うことと、仮に負傷したり、最悪命を落とすようなことがあってもGUSFの責任を問わないという誓約書に署名して提出してもらっているはずだったが、シャオは今一度念を押す。 「私は技術者として試作OMDのルフィとレミィを管理し、逐一そのデータを収集するのが職務ですので」 シャオの確認に無機質な声で答えるヨハナ。当初の予定では単なる慣熟航行に随行するはずだったわけだが、これから戦場に赴くことに関しては特に動揺はないようだ。 「わかりました。仕事熱心なのは良いことです」 シャオはヨハナの言葉に笑顔で頷くと、端末のデータ・ファイルをもう一枚めくってそこに表示された文字に目を走らせながら、 「で、そのレミィさんは? 資料の予定では、今ここに来ているはずなんですけど」 と、アレクシスの顔を見ずに問う。 「は、はぁ。基地の守衛に問い合わせましたところ、まだ基地内にも入っていないようです。どうもその辺で迷子になっているようで……」 頬を掻きながら応えるアレクシス。 「そうですか。では、艦内各部に通達して、それらしき人物を見かけたら艦橋までお連れするように伝えてください」 「了解しました」 ヨハナは、レミィが何故ここにいないのか、と問われる前に事情を説明しだす。 「今日の朝は別の場所にいたので一人で来るように伝えたのですが、これも彼女の訓練のひとつと思って大目に見ていただけませんか」 言葉の面だけから見ればレミィに対する優しい配慮にもとれるが、相変わらず無表情、無機質な声でそう言われても本気でそう思っているのかどうか、シャオにもアレクシスにも今ひとつ掴みきれない。 「ああ、そうですか。ならいいですよ。後で艦の者に居室や仕事場を含めて艦内を案内させますので、出航までゆっくりしていてください。あ、そうそう。待遇は少尉扱いということになります」 「ありがとうございます」 その日の昼下がり、ブライアンの家からほど近いところにある剣道場。 板張りの床の上に竹刀を持って向かい合うブライアンとミュリエル。二人とも和服の胴着に着替えてはいるが、防具は一切付けていない。道場の隅で正座したセリナがその様子を見守っている。 純和風の建物の中には月面に降り注ぐ太陽光を光ファイバーで取り込んだ光が差し込んでいる。彼らの他には道場には誰もおらず、しんと静まり返っている。 相変わらず脱走兵の三人がミュリエルを監視していたが、とりあえず早まった行動には出ないようなのでミュリエルはあまり気にしないことにしていた。 「さあ、どこからでもかかってきなさい」 ブライアンは竹刀を片手に持ち、構えをとらない。 「甘く見ると痛い目を見ますよ!」 精一杯威勢を張るミュリエル。もちろん、竹刀など手にしたのは今日が初めてだ。しかし、ブライアンは微笑をたたえながらそれでも竹刀を構えようとはしない。 ミュリエルは、軍人としてのプライドに揺さぶりをかけられたように感じ、躊躇なくブライアンに向かって床を蹴った。大きく振りかぶった竹刀は真一文字に振り下ろされたが、ブライアンはそれを体をよじるだけであっさりとかわす。 「どうしたかな? 私はこっちだよ」 ミュリエルは自分から見て左にかわしたブライアンに再び向き直り、今度は鋭い突きを繰り出すが、ブライアンの竹刀によって払われてしまう。 その後、何度も攻撃を試みるが、ミュリエルの竹刀はブライアンにかすりもしない。そのうちに息が上がってきて竹刀を構える角度が徐々に下がってくる。 「もう終わりかな? では、こちらから行くぞ!」 ブライアンは道場に響きわたるくらい大きな音を立てて床を蹴ると、ミュリエルに向かって猛然と突進した。ミュリエルはとっさに竹刀を倒してブライアンの竹刀を受け止めるが、次から次へと放たれる剣撃を防ぐのが精一杯で、反撃の余地がなくなる。 「守っていてばかりでは、私から一本取ることはできないよ」 「くっそぉ~」 その時、一瞬ブライアンに隙が見えたので、ミュリエルは両手に力を込め、一気に竹刀を突き出す。 「やあぁぁぁっ!」 会心の一撃のつもりだった。しかし、そこにはブライアンはいない。代わりにミュリエルの首筋に向かって右側からブライアンの竹刀の切っ先が突きつけられている。動きの停まったミュリエルの額に一筋汗が流れる。 「ま、参りました……」 ミュリエルが呻くように言うと、ブライアンは竹刀を下ろした。 「どうかな? 少しは気分転換になったかな?」 そう。元はといえば、昼食の時にブライアンが気晴らしに剣道の真似事でもどうかと言いだし、ミュリエルをこの道場へ連れ出したのがきっかけだ。 「は、はい……」 息を切らしながら返事をするミュリエルの脳裏にはあるイメージが浮かんでいた。 「どう? ブライアン強いでしょー?」 セリナがミュリエルの側に来て、手ぬぐいで汗を拭いてくれる。 「うんっ……」 セリナに微笑み返すミュリエルだったが、次の瞬間には真剣な表情に戻る。それを見て、セリナとブライアンはミュリエルがこの立ち会いを通じて彼女が何かを掴んだことを悟った。 「少し休憩にしようか……」 ブライアンがそう言ったその時、閑静な住宅街に似合わないけたたましい警報が鳴り響いた。 『フォン・ブラウン市直上に反乱軍と思われる艦影多数接近中。市民は大至急指定された避難場所に避難してください』 (敵襲!?) ミュリエルは警報に反応してとっさに警報のしている方向を仰ぎ見る。 「くそっ。とうとうここまで来たかっ」 ブライアンは竹刀を放り出すと、セリナと道場を出る気になった。しかし、道場の中央に立ちつくすミュリエルに気が付いて怒鳴った。 「どうしたっ。早く避難しないと! 艦隊戦クラスの戦闘が始まればここも無事では済まないかも知れないぞ!」 しかし、ミュリエルは微動だにしない。 「ブライアンさん、セリナさん、お世話になりました。私、帰ります!」 ミュリエルは、ブライアンの呼びかけに応える代わりに、二人のほうへ体を向けて力強く言い放つ。 「なんだって!? こんな時に何を言っているんだ!?」 ミュリエルの言わんとする意味が理解できず、聞き返すブライアン。警報はまだ鳴り響き続けている。 「そう……。また月に来たら寄ってね。ヴェルナーくんも、マーリオンさん、クラリッサさん、リリアさんもみんなきっとあなたのことを待ってるわ。ミュリエル・アンダーソン少尉」 「え……? なんだって?」 少尉という言葉を聞いて驚くブライアン。ミュリエルも驚きの色を隠せない。 「ごめんなさい。昨夜、ミュリィがお風呂に入っている間に服を洗濯しようとした時に、ポケットの中にあったカードを見ちゃったの。悪いとは思ったんだけど、あなたが自分で言うまでは言わないでおこうと思って。でも、心配しないで。私達はあなたの味方よ」 「そうか……。それならそうと……。いや、今の月面都市の状況を見ては言えなかったか……。何も力になってやれなくてすまない」 申し訳なさそうに目を伏せるブライアンにミュリエルはこれ以上にないほどの微笑みを見せる。 「いえ、そんなことないです。とても勉強になりました。ありがとうございます」 「体に気をつけて頑張ってね」 ミュリエルは微笑みの中に決意に満ちた勇ましい表情を見せると、力強く頷く。そして、体を翻し荷物を掴むが、ふと思い出したように振り返ると、二人に向かって敬礼を施した。 「ミュリエル・アンダーソン少尉はこれより任務に戻ります!」 そう言い残すと、ミュリエルは道場を後にして走り出した。 道場を出ると、すぐそこに例の脱走兵の三人がいる。 「あなたたちはどうするの?」 「少尉は戻るのか?」 ミュリエルは頷く。 「なんでだ? なんで逃げ出した軍に戻る? 軍に戻ったって……」 「もういい。その先は聞きたくない」 ミュリエルは脱走兵の言葉を遮る。 「なんでって聞いたよね? なんででもよ。わたしには戦うしかないからよ!」 ◆ 市街では反乱軍の攻撃に対して避難を開始する市民がシェルターに向かうべく道路に殺到しており、騒然とした雰囲気に包まれていた。はぐれそうになっている家族を呼ぶ悲鳴にも似た叫び声、子供泣き声が市民の焦燥感を一層煽る。 道場を出たミュリエルは市街まで来ると、道路の方をちらりちらりと気にしながらフォン・ブラウン基地方面に向かって走る。 胴着のままではやや走りづらかったが、靴は自分のものだったのでさしたる苦労はなかった。避難する人々とは反対の方向へと進もうとしているので、歩道を進んでいるとなかなか前に進むことはできなかったが、小柄な体をうまく利用してその中をすり抜けるようにして走る。 車道にも同じく避難しようとする車の列ができていたが、車道の中央付近は緊急車輌用に空けられている。月面都市の道路交通法には、GUSFなどの軍隊の車輌を含めた緊急車輌の通行を妨害した場合には物的損害および人的損害さえも無視して強制的に排除しても良いという条項があるからだ。 彼女の目当てにしていたものはまさしく自分の後方からやってきた。ミュリエルはガードレールを飛び越えて道路に出ると、近くの車のボンネットを乗り越え、大の字に体を広げてそれの前に立ちはだかった。 それ、つまりGUSFの車両は、急ブレーキをかけてミュリエルの直前で停車した。 ミュリエルはすぐにその車両の助手席のドアに近寄るとそれを開け、中の運転手に向かってこう言った。 「私はGUSF所属空母フォーマルハウトの乗組員、ミュリエル・アンダーソン少尉! 私をフォン・ブラウン基地まで連れて行きなさい!」 運転席に座っている女性兵はミ、ひどく狼狽した顔でュリエルの顔を見た。 「いきなり道の真ん中に出てきたら、危ないじゃないですか!?」 「いいから! 基地まで行くの? 行かないの!?」 ミュリエルはなんとも頼りなげな運転手の返事を聞く前に助手席のドアを開けて今にも乗り込まんばかりにシートの上に片膝を乗せる。 「ええと、あなたもフォン・ブラウン基地に行きたいんですね?」 一向に進まない話にミュリエルは苛立ちを覚えたが、 「そうよ! さっきからそうだって言ってるじゃない」 とすぐにそれに答えた。 「私もそこに行くところですから、乗ってください」 ミュリエルはどことなく余裕のない雰囲気の女性兵にやや不安を覚えたが、とりあえず助手席に座りシートベルトを締めると、ドアを閉めた。それとほぼ同時に、運転席の女性兵はアクセル・ペダルを目一杯に踏んだ。 タイヤが路面を擦る甲高い音がしたかと思うと、車は弾かれるように急発進した。 「ちょ、ちょっと! いくら急いでるからってアクセル踏みすぎ! もうちょっと安全運転してよ!」 「大丈夫ですよ。まだ、一度もぶつかったことないですから!」 「そういう問題じゃないでしょ! きゃぁっ、前っ、前見て運転してよ!」 再びフォン・ブラウン基地正面ゲート守衛所。先日とは交代して別の歩哨が立っている。階級は同じ一等兵だったが、敵襲により厳戒態勢が敷かれており、昨日早朝の脱走事件のこともあって今度はかなり厳しい表情で仁王立ちになっている。無論、鉄格子状のゲートは堅く閉ざされている。 「おい! あれを見ろ!」 一等兵は同じく守衛所にいる兵長の声に反応してとっさに銃を構えて基地内へ続く道の方を向く。しかし、そこには何もない。 「違う! そっちじゃない。ゲートの外だ!」 振り返る一等兵の目には猛然と突進してくる車が一台写った。 「くそ! また突破か!?」 「止まれ! 止まらんとゲートに激突するぞ!」 一等兵は言っても無駄とは直感的に知りつつも、突進してくる車に向かって叫ぶ。兵長は内線の受話器を取り上げる。 「緊急事態! 本部! こちら正面ゲート守衛所! 基地外部より突進する車輌一輌あり!」 内線に向かって叫ぶ兵長がそう言い終えた時、守衛所の窓の外から一等兵の叫び声が聞こえた。 「うわあぁぁっ!」 その直後、兵長が顔を上げると、派手なブレーキの音と重い金属音とともに、車輌がゲートに突っ込んできたところだった。思わず腕を上げて顔を護る兵長。車輌はゲートを押し倒すようにしながらそれに乗り上げ、そこで止まった。 守衛の二人は突っ込んできた車が止まったのを確認するとすぐにドアに駆け寄り、窓越しに運転手に銃を向けた。 「おい! 運転手! 名前と階級、所属を言え!」 二人は運転席に突っ伏している女性と思しき人物に銃を向けた。助手席にも女性らしき人物が一人座っているが、運転手がGUSFの制服を着ていることから、もしかしたらどちらかが昨日の朝脱走した女性兵なのかも、と二人に同様の推測が走る。 「痛たたたたったぁ~。なんで止まらないんですかね?」 ぶつけたと思われる頭をさすりながら顔を上げる運転手。脱走したミュリエルの顔の特徴とは明らかに違ったため、脱走した兵士とは違うというのはすぐに判ったが、ゲートに突入してくるという尋常でない事態のため、守衛の二人は気を緩めることはない。 「名前と階級、所属を言え!」 同じ台詞を繰り返す兵長。 「え? え? えええ!? 銃がこっち向いてる!? ええとですね、私はホールトマトの、レミィといいます!」 守衛の二人に気が付いて両手を挙げながらそう答える運転手。 「ホールトマト……? フォーマルハウトの間違いじゃないのか」 「あ、すいません! フォーマルハウトでした!」 守衛の二人は顔を見合わせて、目配せをしてから、もう一度レミィの方を見る。 「フルネームと階級は?」 「いえ、あの、その、ないんですが……」 手を挙げたまま、困った様子で答える運転手、レミィ。 「ないぃ? ふざけるな。GUSFの制服を着てるじゃないか。軍人である以上は階級があるはずだ。大体、フルネームがないってどういうことだ」 「いえ、あの! ないもんはないんです! 撃たないで!」 その時、助手席に同じく突っ伏していた女性が顔を上げたかと思うと、運転席の女性に向かっていきなり怒鳴った。他でもない、さきほどレミィの車に便乗したミュリエルだ。 「馬鹿ぁー!! 閉まっているゲートに真正面から突っ込む奴がどこにいるのよ! 死ぬかと思ったわよ!」 「お、お怪我はありませんか……?」 レミィは怒鳴り散らすミュリエルの頬に触れるようにして安否を気遣う。しかし、ミュリエルはそれを振り払うと、怒鳴り続けた。 「あんたのせいでしょ! 車の運転の仕方ちゃんと知らないなら知らないってそう言いなさいよね!」 「確か、ええと、車のブレーキって右足でしたよね?」 「アクセルも右足!」 言ってしまってからはたと気が付くミュリエル。 「……って、アクセルとブレーキもわかんないの? もしかして、さっきあたしは場合によっては轢かれちゃうところだったわけ!?」 一生懸命答えているのだが、どこかずれているレミィと、助手席のミュリエルは鼻先がぶつからんばかりに顔を近寄せ、まったく噛み合わない言い合いを続けている。守衛の二人はミュリエルの迫力に面食らっていたが、レミィに向かって怒鳴っている人物がミュリエルだと判ると、一層厳しい表情になってミュリエルに銃をつきつけた。 「あなたは昨日脱走したミュリエル・アンダーソン少尉ですね。車を降りてください」 ミュリエルは、兵長のその言葉にはっと気が付いたように顔を上げ、 「そうだ! こんなことしている場合じゃないのよ! 早く行かないと!」 と車のドアを飛び越え、守衛の二人を押しのけると、フォーマルハウトのいる港に向かって走り出そうとした。 「待て! 基地に入れるわけにはいかん!」 「うるさいわね!」 ミュリエルは肩を掴んできた一等兵の顎にアッパーカットを食らわせると、ひるんだ一等兵の銃を奪い、その銃床で兵長の腹に一撃をお見舞いした。 うずくまる二人を残してミュリエルは奪った小銃を肩にかけると、フォーマルハウトのドックへ向かって走り出す。 「あ! ま、待ってください!」 レミィと名乗った運転席の女性兵はミュリエルのあとを必死に追いかけていく。 「なんでついてくんのよ!」 「私もフォーマルハウトに行くんです!」 しかし、警備隊も黙ってそれを見過ごすわけもなく、間もなくミュリエルたち二人はフォーマルハウトへ向かう途中で警備兵に取り囲まれてしまっていた。少なくとも十名はいるだろうか。 「無駄な抵抗はやめろ! 抵抗するとここで射殺する!」 警備兵の隊長と思しき憲兵少尉がミュリエルたちに投降を要求する。ミュリエルには最初から投降するつもりなどなかったが、ここで彼らとやりあうのは少々無謀と言えた。 とりあえず肩の小銃を下ろして地面に放ると、手を上げて抵抗の意思がないことを示すミュリエル。 「わかったわ。じゃぁ、取引をしましょう。この敵襲を撃退したら、あなた達の言うことを聞くわ」 その言葉に目を細めてさも疑わしいと言うかのような視線をミュリエルに向ける憲兵少尉。 「そんなこと信用すると思っているのか。このどさくさに紛れてドラグーンに乗ったまま、また逃亡するつもりなんじゃないのか」 ミュリエルはその様子に不愉快そうに眉根を寄せると、 「どうせ返ってくる返事は同じだろうけど、一応聞いとくわ。あんな目立つ上に燃費の悪いもので逃亡してどこへ行こうって言うのよ?」 と手を上げたまま憲兵少尉に溜息混じりに問う。 「反乱軍への手土産にして亡命するに決まっている」 ミュリエルに向けた拳銃を下ろそうともせずにそう淡々と言ってのける憲兵少尉。 その言葉に呆れたように深く溜息をつくミュリエル。 「……あいつらと同じこと考えてる。馬鹿じゃないの!?」 先ほどまで冷静な態度を見せていたが、憲兵少尉はミュリエルの罵倒に顔を引きつらせる。 「なんだと! 私を愚弄したな! 少々痛めつけても構わん、拘束しろ!」 そう憲兵少尉が叫んだその時、ミュリエルの背後の警備兵のうちの何人かが白目をむいてどうと倒れ込んだ。 ミュリエルはそちらの方を振り向くと、目を丸くして驚きの声を上げた。 「あーっ! あなたたちは!」 「よぉ! 結局、俺達も戻ってきちまったぜ」 そこにいたのは、ミュリエルをドラグーン強奪計画に加えようとした下士官の三人だった。もう、月面都市にいた時のような憎たらしい表情はしていない。言うならば何か吹っ切れたような、晴れやかな笑顔がそこにあった。 「少尉、ここは俺達に任せて、ドラグーンに乗って反乱軍の奴らにギャフンと言わしてやってくださいよ!」 「あ、ありがとう! 無茶すんじゃないわよ!」 警備兵の制止を振り切りミュリエルとレミィは正面の警備兵の包囲の一角を突破して通路を走り抜けた。レミィもミュリエルの後を必死に追いついていく。 「待て! 待たないか!」 「おっと、お前さん達の相手はこの俺達がするぜ」 拳銃を持った憲兵少尉の前に立ちはだかる三人。 「お前らも脱走兵だな? 下士官の分際で上官に刃向かうとは何事か。こいつらを取り押さえろ! 生死は問わない、発砲は任意!」 「なんだとぉ!? 味方を撃とうってのか!?」 憲兵少尉を睨み付ける三人。一瞬、憲兵少尉の表情に恐怖の色が走った。その直後、三人はそれぞれ別の方向に、下士官三人組のうちのリーダー格らしき男は憲兵少尉に向かって猛然と走り出した。 「味方を撃とうって言うのかこの野郎!」 彼は憲兵少尉の顔面を正面から力一杯殴りつけた。後ろにのけぞるように吹っ飛ぶ憲兵少尉。瞬く間に乱戦に持ち込まれてしまったため、仲間に当たるのを恐れて警備兵は結局引き金を引くのをためらってしまう。脱走兵の三人は相当喧嘩慣れしているようで、警備兵が銃を構えようとすると、他の警備兵を盾にして撃たせないように立ち回る。 「おらおらどうした! 素手で来いよ!」 ミュリエルとレミィがフォーマルハウトが入港している軍港にたどり着いた時には、もうあらかた出航準備も終わって燃料補給用輸液パイプがちょうど船体から切り離されるところだった。先ほどまで液化水素、液化重水素及び液化ヘリウム3を送り込んでいた輸液パイプの表面についた霜がぱらぱらと軍港の底に舞い落ちる。 「もう出航しようとしてるの!?」 ミュリエルはまだ開いている最後の乗降ハッチを素早く捉える。乗降用のデッキへ出るハッチから約十メートルにわたって続くデッキ。その先にフォーマルハウト本体の乗降用ハッチが見える。 今はまだ開いている乗降ハッチを見つめて呟くミュリエル。 「どうしよう……」 もし、デッキ上にいる状態でデッキへ出るハッチが閉じ、フォーマルハウト本体の乗降ハッチも閉じてしまうとデッキは折り畳まれてしまうため、その後彼女らを待っているのは深い軍港の底と、軍港上部ハッチの解放による真空状態。 いつ閉じてしまってもおかしくはない。しかし、迷っている暇はない。追っ手もすぐそこまで迫っている。 「えぇーい、一か八かよ!」 ミュリエルはレミィの腕を掴むと、デッキへと飛び出し、フォーマルハウトの乗降ハッチに向かって走り出した。圧搾空気の音がしたかと思うと、背後のハッチはその口を閉じ始める。目の前に見えるフォーマルハウトのハッチもそれを追うように閉じ始めた。 「間に合えぇ!」 ミュリエルは目を細めてそれでも脚を停めることなく、もう半ば閉じてしまっているハッチに飛び込んだ。 しかし、無情にもハッチは彼女の目の前で完全にその口を閉じてしまう。とっさに腕を上げて顔を覆うようにしながらハッチに激突するミュリエル。それに続いてレミィもハッチにぶつかっていく。 「いったぁ~い!」 彼女らはそのままその場に尻餅をつく。 「嘘でしょ~!? ドラマとか映画なら間に合うんじゃないの、普通~!」 既に閉じてしまったハッチを見上げて悪態をつくミュリエルだったが、すぐに乗降用デッキが折り畳まれようとしていることを思い出して、慌てて戻ろうとする。 「レミィ、バックバック!」 「は、はい!」 しかし、デッキから港湾施設に戻るハッチも閉じてしまっていて、戻ることもできないのに気が付いた。まさに絶体絶命である。 「ああ、短い人生だったわ……」 同じ頃、フォーマルハウトの艦橋では出航準備が着々と進められていた。 「艦長。出航準備整いました。いつでも出港できます」 航法担当士官、ラルフ・ハロルド・コックス大尉がシャオを振り返って報告する。 「それじゃ、機関を始動しておいてくださいな」 シャオは艦長席に深く身を沈めたまま緊張感なく言う。 「機関始動」「機関始動」「機関始動」 復唱が艦橋に響き渡る。 「核融合反応炉出力上昇。燃料系統異常なし。核融合反応炉、核融合ロケット・エンジンともに異常なし!」 「反応炉出力臨界。各部動力伝達開始。オールグリーン」 「重力制御システム異常なし」 正面モニターに次々と艦の状況が飛び込んでくる。黄色の文字の羅列の最後に一際目立つ緑色の文字が目に入る。艦内動力関連システムがすべて異常なく動作していることを示す一文である。 「それじゃ……」 シャオが出航の号令をかけようと口を開いた時、フォーマルハウトに震動が走った。 「何事だ!?」 「敵の攻撃です! 軍港の近傍に命中した模様、詳細は不明!」 軍港に激しい震動が走り、照明が落ちた。すぐに非常灯に切り替わり、周囲は赤色の世界になった。 「な、なに?」 ミュリエルは絶望してデッキにへたりこんでいたが、突然の出来事に顔を上げて軍港のハッチを仰ぎ見た。 「たぶん、敵の攻撃じゃないですかね。電力供給区画か基幹ケーブルに直撃があったみたいですね」 同じようにハッチを見上げているレミィは、今までで最も緊急事態であるにも関わらず、慌てることなく最も冷静に的を射た発言をする。 「え? じゃぁ、電気が来てないってこと?」 非常灯で真っ赤になったレミィの顔をはっとして見るミュリエル。 「と、いうことは……」 「そうです!」 そう言うと、デッキと軍港をつなぐハッチに駆け寄るレミィ。ミュリエルは彼女を目で追う。そして、レミィがその細い腕でハッチを引く。 「あ、開くじゃない! 助かった~!」 少しずつ開き始めたハッチを見て、緊張が解けたミュリエルはその場に寝転がる。 こうしてなんとか軍港の港湾施設内部に戻り、九死に一生を得た二人だったが、もうフォーマルハウトには入ることができず、当面の目標を見失っていた。 「これから、どうしよう。このまま黙ってフォーマルハウトが出航するのを見てるしかないのかな……」 ミュリエルは腕を組み、右手で口を覆うように思案を巡らす。どちらにしてもここでじっとしているわけにはいかない。 「フォーマルハウトは出航できませんよ?」 「え、なんで? って、あ、そうか! 電気がきてないからハッチが開かないのね!」 レミィの唐突な一言に反射的に聞き返すミュリエルだったが、すぐに自分で解答を導き出す。重量が何トンもある軍港のハッチだが、その開閉に用いられる動力は電力によって賄われている。人が通るためのハッチなら手動でも開くが、さすがに軍港のハッチとなれば大掛かりな重機でも持ち出してこなければびくともしない。 「その通りです!」 ミュリエルは、通路の脇に備え付けられている内線電話の受話器を取った。 「えーっと、管理センターの番号は……」 インカムの脇に貼られている番号表を上からなぞって軍港管理センターの名前を探す。 「あった!」 素早くインカムのボタンを叩くミュリエル。 「お願い、かかって……!」 しかし、何回呼び出しても誰も出ない。最悪のシナリオがミュリエルの脳裏をよぎる。 「出ない……。もしかしたら、管理センターも攻撃を受けたのかも……」 神妙な顔つきで受話器をフックにかけるミュリエルだったが、レミィは相変わらず緊張感のない声でこう言った。 「じゃぁ、手動で開けましょう!」 驚いてレミィの顔を見るミュリエル。 「できるの!? そんなこと!」 「できますよ。えーと、これを見てください」 レミィは、通路の壁に貼ってある軍港の構造図を指差した。 「ええとですね、ここに軍港のハッチを強制的に排除するための爆発ボルト点火プラグがあるんです。普通の人は知らないんですけど、私はどうやら特別に知ってるようなんですね」 「……知ってるようなんですね、ってあなた時々面白いことを言うわね。でも、今回は褒めてあげる!」 レミィの肩を力強く掴むミュリエル。レミィは照れ笑いをしながら頭の後ろに手をやるが、すぐに真顔になって、ミュリエルの顔の前で人差し指を立てる。 「でも、今電源が停まってるから、歩いて登らないといけないんです」 ミュリエルは、その言葉にレミィの人差し指からゆっくりと構造図に視線を戻す。構造図は軍港を横から見た図になっており、フォーマルハウトのいる底部最下層から何層にもわたってフロアがあるのがわかる。レミィが指差す点火プラグのある場所は、月面地表のすぐ下にあるブロックで、軍港の最上階に当たる。エレベータはあるが、停電しているため動いていないだろう。エレベータのすぐ脇には長い非常階段も描かれている。 「……ちょっ、ちょっと待ちなさいよ! ここまで三十階建てのビルくらいの高さがあるわよ! これを階段で登れって言うの!?」 「そうなんです。それしか方法はないんです」 申し訳なさそうな顔をしながらも、あっさりと言うレミィの顔を呆然として見ていたミュリエルだったが、すぐに体の向きを変えると、 「わかったわよ! 行ってやろうじゃないの! 脚には結構自信あるんだから!」 と大股で歩き出した。 「艦長、フォン・ブラウン基地より入電。軍港管理センターに至近弾が命中。その機能の大半が停止したとのことです!」 最悪の事態だ、エカテリーナの報告にアレクシスの表情が曇る。シャオはその報告に対して短く返事を返しただけで、正面メイン・スクリーンを注視したまま眉ひとつ動かさない。 「それから、ミュリエル・アンダーソン少尉とOMDレミィと思われる二人組が警備隊の包囲を突破して軍港内に侵入したとのことです」 シャオはその言葉に初めて反応を示し、 「彼女らと、なんとか連絡は取れませんか」 とエカテリーナのほうへ身を乗り出す。 「敵の攻撃によって警備隊も一時捜索を中断しているため現在位置が不明なことと、携帯通信機を持っていないようなので、おそらく連絡をとるのは無理かと……」 「コールし続けてください」 「了解しました」 シャオは再び交信を試み始めたエカテリーナから目を離して艦長席の背もたれに身を委ねると、 「アンダーソン少尉がアレに気が付いてくれれば良いのですが……」 と独り言ちた。 最初は勇んで点火プラグのある最上階、非常用点火室へ向けて階段を駆け上がりだしたミュリエルだったが、それも長くは続かなかった。 「レミィ、今どのくらい~?」 前を行くレミィに息を切らして問いかけるミュリエル。顔を上げると、長い長い螺旋階段がまだまだ続いているのが見えた。 「やっと半分くらいですね。頑張ってください!」 そうこうしているうちにも敵の砲撃は続き、時折この螺旋階段も派手に揺れる。 「急がないと……。早くしないとフォーマルハウトが沈んじゃう……」 だんだん上がらなくなっている脚を無理矢理持ち上げて階段を駆け上がり始める。レミィは、そんなミュリエルを尻目に、軽い足取りで少しも衰えない速さで階段を登っていく。 「……あなた、見かけによらず、タフよね」 ミュリエルは、荒い息をしながらも、少しも息が切れないレミィに疑問を投げかける。 「あ、まだ言ってませんでしたね。私、OMDですから」 あっけらかんと言ってのけるレミィ。 「OMD!? 道理で……」 その後、言葉が続かないミュリエルとレミィは黙々と階段を登り続けた。 非常用ハッチ点火室は螺旋階段の真上にあるため、ようやく点火プラグのある最上階までたどり着いた二人は、下から鋼鉄製の扉を押し上げるようにして部屋に入る。 「や、やっと着いた……」 ミュリエルはもう棒のようになっている脚を引きずるように部屋に入って周囲を見渡した。目的の点火プラグは部屋の中央に設置されていた。残された体力を振り絞って点火プラグに近寄るミュリエル。 プラグは簡単なキーボードを操作することで点火するようになっており、IDカードの挿入口がある。ミュリエルは背中のバックパックを下ろすとIDカードを取り出してコンソール下の挿入口に差し込む。軽い電子音がすると同時にコンソールの液晶画面にバックライトが点る。 「よし……。まだ生きてる」 彼女はコンソールに表示されている文章を注意深く読みながら操作をはじめた。 「えっと、ここをこうして……、こう」 もともとコンピュータの扱いが苦手なミュリエルはもたもたと慣れない手つきでキーボードを操作していたが、決して泣き言は口にしなかった。レミィもじっとそれを見守る。 『最終認証パスワードを入力してください:』 この一文を目にしたとたんにミュリエルの動きが止まる。額から一筋汗が流れ落ちる。 「パ、パスワード……? そんなの知らないよ私……」 コンソールに表示された文字列を凝視したまま動かないミュリエル。 「どうしよう……。このままじゃ、このままじゃフォーマルハウトが……。みんなが……」 彼女は今にも泣き出しそうな顔になってキーボードに手をつく。レミィが何か言おうとして口を開きかけたが、ミュリエルの目の前で信じられないことが起こった。 パスワードが一文字一文字解除されていくのである。 「え……!? どうして? なんでパスワードが勝手に解けるの?」 ミュリエルの驚きをよそに、ほんの十秒ほどでパスワードはすっかり解除されてしまい、コンソールに最終確認の表示が出た。 『九番ハッチをパージします、よろしいですか?(Y/N)』 何が何やらわからないうちにパスワードが解除されてしまって一瞬放心状態に陥ったミュリエルだったが、コンソールの文字を見るとためらいなくYにカーソルを合わせ、 「イエス!」 とエンターキーを叩いた。 しかし、何も起こらない。 「……何も起こらないわよ!」 キーボードを手荒に叩くミュリエル。しかし、点火プラグはうんともすんとも言わない。 「あ、これは故障みたいですね」 事も無げに言うレミィの言葉に、 「こ、故障!? 滅多に使わないもんだからって……。ちゃんとメンテくらいしときなさいよね! なんのための非常用プラグなのよ!」 と、誰かは知らないが、設備のメンテナンスを担当している部隊に向かって悪態をつくミュリエル。しかし、レミィは少しも動揺せず、 「大丈夫ですよ。私に任せてください!」 と言い放つと、コンソールを手荒に開ける。そして、中のケーブルを何本か引っぱり出すと、自分の首の後ろにあるコネクタにつなぐ。ケーブルを接続した途端、レミィは虚ろな目になって、動きが止まる。ミュリエルはそのまま動かなくなるレミィの肩に手をかけ、 「ちょ、ちょっと、大丈夫!?」 と言いつつ揺さぶるが、レミィから返事が返ってくる前に、ミュリエルは足下に敵の砲撃によるものとは異なる揺れを感じた。 「爆発ボルト点火、確認しました!」 再び動き出したレミィは、ケーブルを首のコネクタから乱暴に引き抜きながらミュリエルに向かって微笑んだ。 時を同じくして、円形の軍港ハッチの四方からオレンジ色の筋が走った。オレンジ色の筋はハッチの接合部の溝に沿うようにして中央に達したあと、木の枝のように無数の小さな筋に分かれていく。オレンジ色の格子はハッチの上に細かい網のように広がり、ある時白く輝いた。爆発ボルトが仕込まれた炸薬で砕け散ったのである。 爆発によって粉々に砕けたハッチの破片はその半分以上が爆発の衝撃で四方に飛び散ったが、残りは崩れたジグソーパズルのようにバラバラと軍港の中へ落ちていく。 「艦長! ハッチが崩壊します!」 ハミルトン大尉の報告を聞くまでもなく、シャオの目には細かくフレークようになったハッチがフォーマルハウトへと降り注いでくるのが見えた。ハッチの破片が鈍い音を立ててフォーマルハウトの艦体に立て続けにぶつかっていく音が聞こえる。 「艦長! アンダーソン少尉から通信です」 カルサヴィナ上級軍曹からの報告で、一斉に彼女に視線が集中した。そして、その視線は艦長へと注がれていく。 「繋いでください」 シャオの特に動揺した感じもない、どちらかといえば嬉しそうな声が艦橋に響くと、エカテリーナはキーボードを操作する。まもなくして、艦橋全体にミュリエルの声が響いた。映像はない。 『艦長、私です、ミュリエル・アンダーソン少尉です! 今、レミィを通じて話してます!』 「よぉ~く聞こえてますよ。このシャレた雨はあなたの仕業ですね?」 唇に明らかに笑みを浮かべてそう言うシャオの言葉に、一瞬通信に沈黙があった。 『……え? なんでわかるんですか? い、いや、そんなことよりも、早く出航してください!』 「りょーかいです。ご苦労様でしたね」 通信が終わると、シャオはアレクシスの方を振り返った。 「フォーマルハウトを真上に向けて艦載機を出撃させます」 「ほ、本気ですか艦長!?」 アレクシスは素っ頓狂な声を挙げた。 「本気です。他にどんな方法があると言うのですかバウアー中佐」 シャオは艦長席に深く腰を下ろしたままそう答えた。 「いくら軍港が頑丈にできているとは言え、そんなことをすればただでは……」 「わかっています。でもそうしなければ艦載機は発進できません」 さらに反駁を繰り返そうとするアレクシスを遮るシャオ。 「私も反対です。フォーマルハウトを月面上空に上げてから発進シークエンスを行うべきです」 シャオから離れた席にいたコックス大尉も振り返ってアレクシスの意見に賛成する形で混じる。しかし、シャオは相変わらず表情ひとつ変えずに答える。 「それこそ狙い打ちです。向こうはこちらがどの港にいるのか把握しているはずです。今は銭金の計算をしている場合ではありませんよ」 「……わかりました。艦長の判断に委ねます」 アレクシスはそれ以上反論することもなく、比較的あっさり引き下がった。シャオが一度言い出したら聞かない性格なのはこの数日でよくわかっていたのもあったが、他に手段がないことも彼にはよく分かっていた。彼が了承したのを見て、コックスもそれ以上口を挟まず、 「どうなっても知らないぞ……」 と独り言を呟きながらも自分のコンソールに向き直った。 「メイン・エンジン始動、軍港中深部まで上昇した後、本艦座標でピッチプラス九十!」 シャオの命令を待っていた艦橋乗組員がこれに呼応して一斉に動き出す。 「補助スラスター始動」 「第一ロック解除! 続いて第二、第三ロック解除!」 「すべて異常ありません。艦長!」 「それじゃぁ行きましょう。フォーマルハウト、発進!」 フォーマルハウトは、底部スラスターを吹かして上昇を開始する。上昇しながら艦首を上げ、徐々にフォーマルハウトの艦首は真上、すなわち既に半分以上開いている上部ハッチの方向に向かっていく。 その際、月の重力に引かれて軍港の底に落ちてしまわないように、メイン・スラスターを吹かしてその姿勢を維持する。同時に、軍港の壁や軍港に備え付けられている数々の装置は核融合エンジンの超高熱によって破壊されていく。通常、メイン・スラスターを軍港の底に向けて出航することはないため、高出力の核融合エンジンの熱に耐えられるように造られてはいないのである。 アレクシスとコックスがこの方法を反対していたのはこのことがあったからなのである。 「ピッチプラス九十。フォーマルハウト姿勢変更終了!」 艦橋乗組員からの報告に対して、シャオは次の命令を下す。 「フォーマルハウト姿勢そのまま! 艦載機、全機出撃! 敵艦載機隊、及び敵艦隊を迎撃せよ!」 既に発進準備が終了し、カタパルト内で待機していたドラグーン中隊が第一小隊から射出されていく。 最初に出撃した第一小隊、第二小隊の七機のドラグーンが軍港の外に出た直後、敵の攻撃が軍港近傍に着弾する。長距離からの射撃だったため、フォーマルハウトに比べれば遙かに小さいドラグーンには命中しない。 「狙い撃ちってわけか! だが、残念だったな! 大物じゃなくてな!」 ヴェルナーは口許を歪めて一気に月面上空数キロメートルまで駆け上がる。 『ヴァイス少尉! 敵は反乱軍第四艦隊です。月面駐留第八艦隊が援護にあたってくれます』 「了解。MARION! 奴らに一泡吹かせてやろうぜ!」 第一小隊と第二小隊はブレイクして敵艦隊を目指す。 このあと第三小隊と第四小隊を加え、そこからは実にあっという間という表現が正しかった。一旦宇宙に放たれたドラグーン隊は瞬く間に敵艦載機を撃墜し始め、敵はその約二割の艦載機と、アルシャイン型駆逐艦ギアンサルとファクト級防空巡洋艦ファクトの二隻を失ったところで撤退を開始した。 「ミュリエル・アンダーソン少尉、ただいま戻りました」 戦闘後、ミュリエルはフォーマルハウトの連絡用短艇で回収され、その直後に艦橋に召還、艦長シャオの前にいた。彼女はいつになく真剣な表情を見せている。彼女の後ろにはフォン・ブラウンで出会った脱走兵の下士官三名も並んで立ち、同じように敬礼している。彼らは顔中にアザや傷を作っており、警備兵と相当殴り合ったことを物語っていた。 「休暇は、どうでしたか?」 シャオは艦長席からにっこり微笑んで四人に問いかけた。 「か、艦長! まさかこの四人を許すなんて言い出すつもりではないでしょうね!? クロウ少将になんと報告する気ですか!?」 突然呑気な、しかし予想はしていたことを言い出したシャオに対してアレクシスが横槍を入れる。 「そうですよ? だって、彼らはフォーマルハウトの窮地を救ったじゃないですか。お釣りを払わなくちゃいけないくらいですよ。クロウ少将も不問にすると言っていたじゃないですか」 あっけらかんと言い放つシャオ。 「脱走は重罪です。これに対して厳重な罰を与えなければ再び脱走事件が起きます」 ミュリエルら四人の目の前で言い合いをするシャオとアレクシス。どちらが勝つかで彼ら四人の処分が決まるのは明白である。ミュリエルはともかく、三人の下士官達は心の中でシャオを激しく応援していた。何故ならば、士官は無罪放免ということになったとしても、下士官は厳罰ということもあり得るからである。 「うーん、それはそうなんですけどねぇ。脱走していたから、今回のような活躍をできたっていう考え方もあるんですよね」 「それは結果論に過ぎません。基地にいる他の兵士が先にハッチを開いていたら、やはり罪に問うのですか? それではあまりにも都合が良すぎます」 アレクシスの反論にシャオの顔からは笑顔が消え、初めて彼の顔を見上げた。 「中佐、彼女がハッチを開いたのは間違いのない事実です。身を挺して彼女の道を拓いたのは彼らであることも事実です。事実に「たら」、「れば」、は無用です。この事実を無視して罪だけ追求するなんて、私にはできません」 シャオの理屈も解る。しかし、アレクシスはここで、艦長の仰るとおりにしましょう、と安易に同意できない立場に立たされている。四人に少しでも肝を冷やしてもらわなければ、他の乗組員に示しがつかない。 「それから、少将が不問にすると言ったのは上層部への報告についてです」 更に、アレクシスはシャオがクロウの言葉を拡大解釈している点を指摘する。 「そうでしたっけ? 少将は済んでしまったことは仕方がないって最初に言ってたと思うんですが」 確かにクロウはそう言っていた。彼が最も気にしていたのは、フォーマルハウトから脱走兵が出たことではなく、ドラグーン中隊の統率とその隊員の資質についてだった。解釈のしようによっては、脱走兵の処分についてはシャオに一任されたと捉えられなくもない。ここでクロウの判断を仰ごうものなら、藪から蛇が出かねない。 アレクシスもだんだん言い返しようがなくなってきたが、クロウへの説明にこだわって最後まで食い下がった結果、結局四人は経歴書の賞罰欄にも記載される戒告処分となり、始末書の提出を求められた。 少なくとも、これで彼らは昇進などにも響く汚点を残すことにはなったが、あくまでも書類上の処分に過ぎなかった。GUSFでは士官の脱走は想定されておらず、懲罰の明確な規定そのものがないため、ミュリエルにはこれでも重いほうだった。しかし、下士官兵に対する脱走の懲罰は営倉入りでも軽いほうで、普通なら憲兵に引き渡された上に軍法会議が待っている。したがって、三人にとっては大幅な減免であった。 一通りアレクシスから説教を食らい、二度と脱走などを企てないことを誓わされたものの、一時間半ほどで開放された四人は艦橋を出て通路を歩いていた。 「何はともあれ、お互い大したお咎めもなくて良かったわね」 長い小言が終わった開放感に伸びをしながら言うミュリエル。 「そうだな……いや、そうですね、少尉」 それに答えた元脱走兵の三人のうちリーダー格の男が彼女に対して口調を訂正したのが、ミュリエルにはおかしかった。 「ぷっ、何よそれ……。いきなり敬語にならないでよ」 最初はくすくす笑っていたのが、だんだん彼女の笑いは大きくなってくる。 「な、なんだよ! 一応上官として扱ってるんだろうが!」 「ゴメンゴメン。でも本当にあなた達が助けに来てくれた時はびっくりした」 ミュリエルの言葉があってからやや間があって三人組のリーダーが口を開いた。 「……今思うとなんで戻ってきちまったんだろうなって思うぜ。結局上の命令ひとつで死ななきゃならないのは変わらないのにな」 そして、照れくさそうに鼻の頭を掻きながらこう続けた。 「けどよ、なんとなく戻って来なきゃならないような気がしたんだ」 男の横顔を上目遣いで見ていたミュリエルは、彼の前に回り込むと、微笑んでこう言った。 「あなた達の名前、まだ私知らないよ」 「ああ、そういえばそうだったな。俺はネルソン・ウォルシュ。階級は軍曹。こいつらはマイクとミック。二人とも伍長だ……」 ネルソンが言い終わるやいなや彼らに大きな声が届いた。 「ミュリィ! こんなところで何してるんだ、探したんだぞ!」 ミュリエルにとって、ひどく久しぶりに聞くように思えたヴェルナーの声。彼女は声のした方を振り向いた。そこには、ヴェルナーの他に、リリア、マーリオン、クラリッサが立っていた。彼らとは少し離れたところにマクシミリアンとヴェルカの姿も見えた。 「ヴェルナー……。リリア、マクレイン中尉、それに隊長も……」 ミュリエルがそう呟くのと同じくして四人はミュリエルの前まで歩み寄った。 「隊長、ご迷惑をおかけしてすいませんでした……」 まずミュリエルの口から最初に出た言葉はそれだった。ひどく申し訳なさそうな表情をしてうつむくミュリエル。しかし、マーリオンの口からは意外な言葉が飛び出した。 「艦長からは大したお咎めはなかったようですが、私は艦長ほど甘くはありませんよ」 「はい。どんな罰でもお受けします」 厳しい視線を向けるマーリオンに顔を上げ毅然とした態度で返事をするミュリエル。固唾を飲んで見守るネルソンたち元脱走兵三人組とヴェルナー達。 「……殊勝な心構えですね。では、目を閉じて舌を噛まないように歯を食いしばりなさい」 「隊長!」 「少佐殿! 少尉は……!」 マーリオンの言葉に驚くヴェルナーとネルソンをよそに、ミュリエルはマーリオンの言われたように目を閉じ、顎に力を入れた。 右手を振り上げるマーリオン。ミュリエルの瞼に一層力が入る。しかし、周りにいたヴェルナーたちは張り手の乾いた音ではなく、マーリオンのマーリオンらしい行動を目にしたのである。彼女は右手を振り上げたまま肩を震わせていたが、そのままミュリエルの肩に手を回してしがみつくようにして抱きついた。 「おかえりなさい……。よく無事で戻ってきましたね。フォーマルハウトの乗組員ということがバレて酷い目に遭ってないか心配していましたよ」 彼女の閉じた瞼の端には涙が光っている。 予想外の展開に驚いて目を開くミュリエル。 「隊長……」 ミュリエルもまた、マーリオンの涙につられるようにして瞳に涙を浮かべてマーリオンの肩にしがみついた。 「隊長、みんな……。ごめんなさい。本当にごめんなさい」 こうして、フォーマルハウトの短くて長い休暇は終わったのである。
to be continued...